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苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
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原水禁大会から五十四年を経て

2009年7月25日付 中外日報(社説)

「原爆を許すまじ」(作詞=浅田石二、作曲=木下航二)が広く歌われるようになったのは、昭和三十年八月、広島市で開かれた第一回原水爆禁止世界大会が一つの契機だった。

被爆から十周年のこの年八月六日、同市平和公園で市主催の平和祈念式が行なわれ、最後には広島市役所合唱団による「ひろしま平和の歌」=市選定=の斉唱で締めくくられた。その後も合唱団はその場に残り、式の終了を確認した後、歌声を起こした。「ふるさとの街やかれ/みよりの骨うめし焼土に/今は白い花咲く/ああ許すまじ原爆を/三度許すまじ原爆を/われらの街に……」

この歌、「原爆を許すまじ」は、平和祈念式の終了後、平和公園内の市公会堂を会場に、三日間の日程で開かれた原水爆禁止世界大会のテーマソングにも選ばれていた。

それまで、平和運動や原水爆禁止運動は左翼的と見る傾向があり、「原爆を許すまじ」の歌も、広がりに限界があった。ところが原水禁大会は東京・杉並の女性団体「杉の子会」の署名活動がきっかけとなって開催準備が進められた。その大会のテーマソングとなったことがこの歌の知名度をぐっと高めた。

前年の三月には、静岡県の漁船、第五福竜丸がビキニ環礁沖で米国の水爆実験による死の灰を浴びた。半年後の九月に、同船無線長の久保山愛吉さんが「被爆が原因の黄疸」で死去。葬儀の席で歌われたのが「原爆を許すまじ」だった。その歌声の幅が、広島でさらに広げられた。

前年までの広島には、三つの顔があった。一つは市主催の平和祈念式で、いわば"よそゆき"の顔。もう一つは労組が革命歌を歌う"革新的"平和祭、そしてそのどちらにも参加しない市民たちが、家ごとに肉親死没の地や墓地を訪れて追悼する"ひそやかな広島"があった。その三つの広島が、原水禁大会で一つにまとまった。事務総長を務めた安井郁・法政大学教授=当時=の組織力によるものだろう。

米ソ両陣営から十三ヵ国五十人の外国代表も参加、最終日には「世界の平和を愛する人々と手を結び、国際連帯の形において原水爆禁止運動を強力に推し進めたい=要旨」との大会宣言が採択された。会議としては、成功を収めた。

けれどもその後、日本国内の保守・革新の対立は激化し、国際間の緊張も高まり、核武装の動きはかえって加速する。米・英・ソの三ヵ国に続いて仏・中・印・パキスタンの諸国が次々に核実験を重ねた。

この間、米国では「日本への原爆投下は戦争終結を促進する効果があった」との公式見解が貫かれた。しかし第一回原水禁大会から五十四年後のいま、米国大統領に就任したオバマ氏が「米国は最初に核兵器を使用した国として道義的責任がある」と発言し、イタリアでのラクイラ・サミットでは主要八ヵ国の首脳宣言で「核なき世界を目指す」ことが謳(うた)われた。さらにサミットの席上ではオバマ大統領が、来年三月に米国で「核安全保障サミット」を開催すると発言している。

だからといって、直ちに核なき世界が実現するものではないが、米国だけでなく世界にも「チェンジ」の機運がみなぎり始めたことは確かだ。そして広島・長崎以後、世界では戦場での核兵器使用は行なわれていない。「三たび許すまじ原爆を」の歌の願いは生かされている。その事実を、宗教界が先頭に立ち、日本人の悲願を世界に発信してほしいものだ。

なお広島市選定の「ひろしま平和の歌」(作詞=重園贇雄、作曲=山本秀)には次の一節がある。

「風清くかがやくところ/国のはて世界の友に/おお熱く想いかよえと/鐘はなる平和の鐘に/いまわれら手をさし伸べて/その睦みここに歌わん」