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臓器移植法改正拭いきれぬ危惧

2009年7月16日付 中外日報(社説)

「脳死は人の死」と一義的に位置付けた臓器移植法改正案(いわゆるA案)が参議院でも賛成多数で可決された。本人の意思という条件を緩和し、臓器提供者の年齢制限を廃止したことで、幼い命が救われる道が開かれたと歓迎する声が聞かれる。

しかし、その一方で、「脳死は人の死」とする法改正には依然、強い批判がある。

脳死判定を受けた臓器提供者が現われるのを待つ人たち以外にも、一方の当事者として脳死と判定された子供などを持つ家族も当然いて、今回の改正の動きの中で、こうした人たちの声もマスコミで紹介される機会が増えた。

脳死とされる子を介護する母の声や映像に触れた後では、「脳死=死」の法的定義が、ある意味で無情で一方的な強制である、という印象は拭いがたい。

宗教界ではA案の衆議院通過後にも「脳死は人の死」とする法改正に批判と危惧の声が高まり、本紙の報道によれば大本・人類愛善会の街頭行動や、参議院議員会館で宗教者が参加した緊急院内集会も行なわれていた。

ところが、自民党大敗の東京都議選から一夜明けた十三日、意外とあっけなくA案が可決された。本紙は良識の府ともいわれた参議院では、死生観にも踏み込んだ慎重な審議を期待していた。A案賛成の立場のメディアですら、実質三ヵ月の衆参の審議では「結論を急いだ感」は否めないとする。国会会期末、衆議院解散総選挙目前とされる時期、どのような配慮が働いたのだろうか。

いずれにせよ、「脳死は人の死」とする法改正は臓器移植の機会を待ちわびる当事者にとって朗報となったわけだが、改正法の成立後、あらためて問いたいのは、この改正が日本人の死生観に、さらにあえて言えば倫理感覚にどのような影響を与えるかということである。

私たち人間は一般に直接おのれの視野の中に入ってこないもの、日常、特に意識しない事柄に対する感覚は希薄だ。

例えば、日本の自殺者は実に年間三万人を超えるが、有名人でない限りマスメディアが自殺を大きく報道することはない。それぞれ自殺者の家族、親族にとっては深刻な問題だとしても、これだけ膨大な数の人が心に傷を抱え、毎日のように自ら死という最後の選択をしているという重い現実を、私たちは日常それほど意識しないで済んでいる。

また、私たちは他の生命の犠牲の上で自らの生命を維持していることを理屈では承知している。だが、テレビの大食い番組を見ながら、その犠牲の意味について考えることはない。

かわいがっていた高価なペットの死を嘆く人も、そのペットが不自然な近親交配を重ねて人為的に品種改良されたものである、という事実の背景に何があるかについては鈍感でいられる。

脳死臓器移植問題に関しては、個々の臓器移植希望者(レシピエント)が臓器提供を決断したドナーやその家族の思いに深く感謝し、与えられた命の貴さを感じつつ生きてゆくであろうことは疑わない。

しかし、今回の法改正が一人一人の生と死の重みを、社会の中で実感できない方向へ一歩押しやるのではないか、ということを恐れる。人の臓器が"資源"と見なされるような傾向が社会や医療の世界で生まれることを深く危惧する。

脳死臓器移植において、人の死が、社会の構造のいずれかの部分で"期待"されながら、私たちが日常意識しないで済むところに整理され、一般には「見えないもの」「見ないで済むもの」にされてしまった時のことを考えざるを得ない。

社会的弱者であれ、高齢者であれ生命の重さは平等である。それが平等であることを無視できるような社会には、決してしてはならない。その意味でも臓器移植法の改正は充分な配慮を重ねたものといえるかどうか疑問が残る。もう一度慎重な検討を求めるゆえんである。