ニュース画像
多くの人が見守る中、彰義隊墓所で盛大に営まれた150回忌法要
主な連載 過去の連載 エンディングへの備え
苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
購読のお申し込み
新規購読キャンペーン
紙面保存版

啄木父子の歌碑今秋にも除幕へ

2009年7月11日付 中外日報(社説)

今年三月十四日付の本欄で、高知市のJR高知駅前にあった「啄木の父・石川一禎終焉の地」の木製の標柱が、駅舎改築と駅前再開発工事のため撤去されたことをお伝えした。その後、高知の文化人の間で、一禎と息子・啄木を顕彰するため、石の歌碑建設運動が起こり、早ければ今秋にも除幕の運びという。

曹洞宗僧侶だった石川一禎は、宗費を滞納して岩手県渋民村(現・盛岡市)宝徳寺住職の座を失った。長男の啄木に先立たれると、二女とらの夫で鉄道省(現・JR)職員の山本千三郎方に身を寄せ、千三郎の転勤により大正十四年、高知に移住した。二年後の昭和二年、数え年七十八歳の生涯を高知で終えた。

一禎も歌を詠み、四千首近い歌稿を残した。平成四年、当時の「高知県歌人協会」所属の歌人有志が資金を出し合い、歌道の先輩・一禎を追憶するため標柱を建てたらしい。

駅舎と駅前の工事は平成十四年、JR四国と高知市の協力で着工、今春ほぼ完成した。しかし標柱は復活しなかった。新しい駅舎と駅前広場に、風雨で黒ずんだ標柱を再建すれば、場違いな印象を与えかねない。JRの倉庫に保管されたまま、眠っていた。

毎日新聞高知支局長の大澤重人記者が、この経過を知って報道した。歌誌『海風』の梶田順子編集委員、『高知歌人』の西岡瑠璃子代表ら地元の歌人は「標柱を復活するよりも、新たに石の歌碑を作って、啄木父子を偲びたい」と話し合った。高知ペンクラブ会長の高橋正氏ら高知在住の文化人も協力、歌碑建設の募金委員会が組織された。

高知新聞、岩手日報の関係地方紙だけでなく、朝日新聞も全国版で報道したため、募金は順調に進んでいる。石碑に刻む歌は、一禎が「寒むけれと衣かるべき方もなしかゝり小舟に旅ねせし夜は」。啄木が「よく怒る人にてありしわが父の/日ごろ怒らず/怒れと思ふ」と決まった。

一禎・啄木父子合同の歌碑建設は、盛岡市に次いで二番目という。

この間、さらに興味深い話題も伝えられた。盛岡市在住の啄木研究家・森義真氏らによると、啄木の母カツの実家、工藤家の祖先は熊谷姓。源平一ノ谷合戦の勇士、熊谷直実の血筋で、その一族が、中世から近世にかけて土佐(高知県)に住んだ伝承があるという。土佐史研究家の広谷喜十郎氏=高知市在住=は、長宗我部時代の中村(現・四万十市)の検地帳に、熊谷姓の郷士らしい名が記載されていると指摘する。

さらに高知県選出の元参議院議員・平野貞夫氏は、出身地の三崎村(現・土佐清水市)に伝わる物語を父親から聞いていた。承元の法難で土佐へ流罪と決まった法然上人を迎えるため、土佐の信徒らは一宇の寺を建てた。しかし高齢の上人は讃岐(香川県)にとどめられることになった。代理として熊谷蓮生房が土佐入りした。蓮生房は直実が出家して法然上人から授かった法名である。蓮生房は法然筆の六字名号を土佐にもたらした、と。

しかし、名号を受け取ったとされる三崎村の寺院には、何の言い伝えもないといい、伝承の裏付けには、さらなる研究・調査が必要とされている。歌人・石川啄木は、岩手から一千キロ離れた高知には全く縁がないとみられがちだったが、父・一禎がここで生涯を終えただけでなく、母方の祖先も地縁があった可能性が浮上した。

盛岡市在住の元盛岡大学教授・遊座昭吾氏は、一禎が去った後の宝徳寺で代々住職を務める遊座家の寺族である。国際啄木学会会長を務めたこともあり、一禎や啄木のさらなる顕彰を目指している。今回の歌碑建設を喜ぶだけでなく、啄木の祖先について、高知の寺々から新しい資料が発見されるのでは、とも期待している。地方史を支える寺院の役割に注目したい。