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段原国民学校が原爆に遭った日

2009年7月4日付 中外日報(社説)

広島に投下された原爆のため、爆心から一・六キロの広島市南区の同市立段原国民学校(小学校)の木造二階建て校舎は、一瞬のうちに倒壊した。児童の一部はすぐ脱出したが、数十人は材木の下敷きになって、外へ出られない。赤川忠良教頭は通り掛かった人々に、大声で頼んだ。「この下に児童が埋まっています。助けてください!」

十人近い若者が、立ち止まった。広島工業専門学校(現・広島大学工学部)電気科の一年生だ。動員先の中国配電(現・中国電力)大州工場(爆心から三・五キロ)から自宅へ向かう途中だった。

赤川教頭に協力して材木を取り除こうとしたが、何一つ、道具がない。ようやく男の子一人を引き出し、その奥にいた女の子を救おうとした時、火が迫ってきた。「かたきを討ってください」。女の子の悲痛な声を炎が包んだ。昭和二十年八月六日だった。

あと一息で四年生の吉本孝子ちゃんを救えなかったことにこだわり続けた学生が、二人いた。一人は、加藤義典氏(81)=広島市西区=である。後に中国電力に入社、要職を歴任したが、毎年八月六日にはひとりで段原小学校に行き、孝子ちゃんら犠牲になった児童のために合掌した。原爆五十回忌の平成六年、校長に手紙を書いた。「児童を助けられず、すまなかった」。返事はこなかった。

もう一人は、会社勤務を経て作家になった小久保三好(筆名・田端展)氏=同市南区・故人=である。平成七年『被爆舞踏曲』を出版した。広島で年二回刊行される総合文化情報誌『地平線』の第二十五号(平成十年秋刊行)に「助けてあげられなくてごめんね」の題で、段原国民学校被災の記録を発表した。小久保氏にとって同校での体験は、原爆文学のバックボーンの一つだった。

平成十四年に、NHKが「市民が描いた原爆の絵」を募集した。加藤氏は段原校にかかわる三枚の絵を応募、その関連取材で学校を訪問した時、あの日「児童たちを助けて」と叫んだ赤川元教頭が記した戦中戦後の記録が、同校に保存されているのを知った。日中戦争勃発の昭和十二年から、赤川氏死去の前年の同三十二年まで、二十年間の市民生活が絵入りで丹念に記されていた。

前線へ出征する兵士を日の丸の小旗で送る風景や、空襲に備え電灯の光が漏れないようにして読書する様子などがあるが、クライマックスはやはり原爆当日のこと。下敷きになった児童をほとんど救い出せなかった無念さが、切々とつづられている。

「助けてあげられなくて……」と悔やむ側が、あの日「助けて!」と頼んだ側の手記に出合った。ぜひ出版すべきだと考え、小久保氏は、全文をパソコンに打ち込み、印刷の準備をしたが、赤川元教頭の遺族は出版にも『地平線』への掲載にも慎重だった。小久保氏は心を残して平成十八年、七十九歳で死去した。

加藤氏は段原小学校の生徒に"語り部"をするようになった。鷲見(すみ)澄子校長=当時=は加藤氏の体験談を聴いた六年生に、談話の内容をリレー式に文字でつづらせ、他の児童には当時の模様を想像した絵を紙芝居風に描かせ、平成十五年に画文集として出版した。表題は「助けてあげられなくてごめんね」。小久保氏の記録の題名を取り、鷲見校長が墨書した。

赤川元教頭の没後五十年を過ぎた今年三月、遺族から『地平線』編集人の寺島洋一氏(77)=広島市安芸区=に、手記を公表してもよい旨の便りが届き、まず被爆当日の部分が四月刊行の『地平線』第四十六号に掲載された。残りは今後も分載、反響次第で一冊にまとめたいという。

あの日の広島で「助けてあげられなかった」ことを業のように感じている人々は今も多い。間もなく今年も、原爆忌を迎える。