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伽藍と人を峻別せよ

2009年7月2日付 中外日報(社説)

日本の臨済宗には今日、「伽藍法(がらんぼう)」と「人法(にんぼう)」という二つの伝統が脈々と流れている。伽藍法とは読んで字のごとく五山時代以来、今も隆々と甍を連ねる京鎌倉の禅寺に伝わる法脈をいう。全国津々浦々に広がる臨済宗、および黄檗宗の寺院は、いずれも臨済宗・黄檗宗十五宗派の各宗派大本山の末寺たちである。

今日、それらの大本山の住持となる人は、「歴住開堂(れきじゅうかいどう)」といわれる儀式によって、大本山の法を伝える住持である旨を天下に標榜し、平素はひそかに保管されている住持の篆(てん、印章)を開いて、その所在を点検する。これが「視篆式(してんしき)」と呼ばれる重要行事である。

こうして印可証明によって臨済宗の法灯を伝える人と目される人が、一派から推薦されて歴代の本山住持となる。大本山の住持を管長職と呼ぶようになるのは、つい明治この方にすぎない。こうして連綿とつながってきた法灯を「伽藍法」という。

もともと五山の禅寺では、五山の禅僧が他の叢林の暫定的な住持となって法を挙揚する習わしがあり、これを「十方住持刹(じっぽうじゅうじせつ)」と称した。片や五山以外の大徳寺や妙心寺の山隣派(さんりんは、あるいは林下とも)では、徒弟院(つちいん)といって、その山で修行してその師の法を嗣いだものに限って住持となった。これを「一流相承刹(いちりゅうそうじょうせつ)」という。

時代が下って来ると、五山の寺院は幕府の外護に甘んじて、大いに文芸に走るようになった。これがいわゆる五山文芸、あるいは五山文化として今日にまで伝えられている華々しい禅文化遺産である。しかしその華麗な生活の中で、本来の修行がおろそかになっていったのは必然の成り行きであった。五山の叢林はある時期、「連環結制(れんかんけっせい)」といって、持ち回りの坐禅の大会(だいえ)を開催して、臨済禅の昂揚を図ったが、これも長くは続かなかった。

他方、山隣派では大応国師(南浦紹明、なんぽじょうみん)、大燈国師(宗峰妙超、しゅうほうみょうちょう)、無相大師(関山慧玄、かんざんえげん)と次第した、いわゆる「応燈関(おうとうかん)」一流の法系から、徳川中期に白隠慧鶴(はくいんえかく)が出て、日本臨済禅はにわかに活気を取り戻し、白隠の門下から輩出された禅僧たちが次々と、五山の叢林へ修行者の指導に招かれていった。こうして五山の叢林の中に、白隠創出の公案禅による新しい臨済禅の伝統が、並行して流れるようになった。これが「人法(にんぼう)」といわれるものである。

もし、江戸の中期に「五百年間出の人(五百年に一度出るような偉人)」と仰がれた白隠和尚が現われていなかったら、日本の臨済禅は禅の命脈を失って形骸のみとなった伽藍仏教に成り下がっていたであろう。しかし幸いに今、白隠の公案禅は、日本国内はもとより、西欧諸国においてもますます盛んになりつつある。

言うまでもなく禅は厳しい修行による、修行者一人一人の実体験を根本としている。大燈国師は、どんなに伽藍が立派で、修行者が多く集まっても「仏祖不伝の妙道(祖師も伝えられなかった宝物)」を各自の物として手に入れなければ、禅の真風は地に墜ちるであろうと誡(いまし)めている。

禅を伝えるためのキーワードは唯一つ、「専一に己事を究明すること(もっぱら自己とは何かを追求すること)」である。妙心寺開山関山慧玄によると、それこそが禅僧のなすべき根本命題であって、「その本を努めず、誤って葉を摘み枝を尋ねるようなことがあってはならない」のである。枝葉末節のことについて雑音の多い時代の、宗門人の心すべきことではないか。