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臓器移植法改正案参議院では慎重に

2009年6月25日付 中外日報(社説)

臓器移植法制定以来十二年、衆議院で「脳死は人の死」と一義的に位置付けた改正案が可決された。臓器提供者の年齢制限を廃止し、本人の意思という条件を緩和するなど臓器提供の実施件数を増やす狙いがある。改正案審議の舞台は参議院に移るが、そのまま成立するかどうかはいまだ微妙、という見方が強いようだ。

「脳死」は医学の発展によって新たに生まれた概念である。それ以前は心臓停止、呼吸停止、瞳孔拡大という三兆候による死の判定が一般的に受け入れられてきた。

さかのぼれば、平成四年の脳死臨調最終答申では「脳死」を人の死と認め臓器移植に賛成する多数意見と、これに反対する少数意見が両論併記された。平成九年十月施行の臓器移植法(現行法)は、臓器移植とのかかわりで本人に臓器移植の意思がある場合にのみ脳死を人の死としている。

臓器移植法自体はあくまで臓器移植の手続きを定めた法である。「脳死=人の死」とみなされるのは「その身体から移植術に使用されるための臓器が摘出されることとなる者であって」(第六条第二項)と限定するただし書きがあり、かつ、脳死臓器移植には生前の本人の意思が必要とされた。従って、ドナー以外の死は従来通り"心臓死"であると(法律上の定義はないが)考えられる。

ところが今回、衆議院で可決されたA案は第六条二項のただし書きを外した。「脳死は人の死、と一律に定義した」とされるゆえんだ。さらに本人の明示の意思によらなくとも、家族の承諾で脳死臓器移植は可能としている。従って、年齢面で意思表示の有効性を問う必要もなく、同法施行の厚労省ガイドラインで設けた「十五歳以上」という制限も意味を失う仕組みである。

「臓器の移植に関する法律」の性格上、この「死の定義」は原則として臓器移植の現場に限られるわけだが、臓器提供者本人の意思という限定を外し「脳死は人の死か」を問う"死生観"にかかわる法改正案であるため、主な政党は採決に当たって党議拘束を外したという。衆議院の票決は既に報じられている通りで、WHOの臓器移植に関する指針改定の方向などをにらんだ判断が働いたという分析もある。

世論調査などに基づき、「脳死は人の死である」とすることの国民的合意はまだない、との指摘もなされている。仮に世界の大勢が「脳死=人の死」だとしても、その理由によって国内の合意もないのに法改正を急ぐ必要は全くない。問題は臓器移植の機会を今も待ち続ける人々のことをどう考えるかという点だろう。

ところで、こうした法改正の動きに対し、宗教界からは依然危惧する声が強いようだ。日本宗教連盟は今月四日、「問題点を残したままでの採決は、将来にわたり日本人の死生観の形成に禍根を残す」として慎重な判断を求めた意見書を衆議院厚生労働委員長に提出している(本紙六月九日付一面)。同日付の本紙ではほかにも「改正」は必要としない、という意見や「いのちの平等を損なう」といった危惧の声も紹介している。

法の制定当時は、布施としての意義、三輪清浄の問題などそれぞれ宗旨の立場から研究、議論、社会への発言が積極的に行なわれた。それに比較すると、今回の改正案審議に至る仏教界からの声はあまり目立たないようにも見える。しかし、教義によって是か非かを割り切るのとは別の姿勢で、ある意味においてより成熟した論議は(少なくとも一部では)続けられてきた。衆議院の「A案」可決に対する上記の批判、異論の多くもそうした議論の深化を充分押さえているように思われる。

これら反対意見が指摘するように、今回の「A案」可決は「脳死」についての国民一般の意識を踏まえたものとは言い難い。脳死臓器移植の条件緩和がどのような結果をもたらすかについての見通しも、不透明なところを多く残している。

この問題にかかわる国会の判断は長く日本人の意識、社会のあり方にも否応なく影響を与えるものになるだろう。やはり、衆議院の審議と採決結果には疑問が残る。参議院では一層慎重な審議を切に望みたい。