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仏教初伝の珍説

2009年6月18日付 中外日報(社説)

中国から最近届いた『文博』二〇〇九年二期号に、「秦始皇時代仏教已伝入中国(秦の始皇時代に仏教已に中国に伝入す)考」という興味深い標題の文章が登載されている。陝西省考古研究院研究員の韓偉(ハン・ウェイ)氏の執筆。『文博』は西安市の陝西省文物局を編集主管とするところの隔月刊誌である。

仏教の中国初伝に関しては、後漢の明帝の永平年間(五八―七五)に伝来したとする、いわゆる「永平求法伝説」なるものが広く行なわれている。だがそれはあくまで伝説であって、仏教の初伝の実際を明らかにするのは容易なことではない。韓氏の文章はこの難問を解決してくれるのであろうか。

韓氏は『史記』秦始皇本紀の始皇帝三十三年(前二一四)条に「禁不得祠」とあるのを取り上げて、「不得(フトク)」とは仏陀(ブッダ)の音訳にほかならず、「不得祠」とは仏教寺院のこと、従って「禁不得祠」とは秦の始皇帝が仏教寺院を禁圧したことを意味するのであって、その時点までに仏教が中国に流伝していた確かな証拠であるとしているのだ。

韓氏の説が正しいとするならば、仏教の中国初伝は後漢の明帝をはるかにさかのぼる時代のことになるわけだが、果たして韓氏の説を信じてよいのであろうか。だが待てよと躊躇せざるを得ないのは、仏教が中国に伝来した早い時期において、仏陀が「浮屠」あるいは「浮図」の文字をもって音訳されたことは知るけれども、「不得」の文字をもって音訳されたことを知らないからである。

それだけではない。『史記』秦始皇本紀の原文は、「禁不得祠」の四文字の後に「明星出西方」の五文字が続き、つまり「禁不得祠明星出西方」なのである。韓氏は「禁不得祠」と断句した上で説を立てているわけだが、語法上から容認することはとてもできない。何となれば、「禁不得(チンプドオ)」は一まとまりの分かち難い三音節の言葉として句の冒頭に置かれ、その後に他動詞(この場合は「祠」)とその目的語(この場合は「明星出西方」)をもって表現される事柄を禁止することを意味するからである。

従って『史記』の原文は、「西方に出現した明星を祭祀することを禁止した」と解さなければならない。ちなみに『史記』の注釈である『集解』は、その個所に「彗星見(あらわ)る」という三世紀西晋の皇甫謐(こうほひつ)の『帝王世紀』の説を引いている。つまり皇甫謐は、明星を彗星、すなわち不気味なほうき星のこととしているのである。

「禁不得」で始まる同様の構文の句は、例えば『漢書』王莽(おうもう)伝の始建国元年(九)条に、「欲防民盗鋳(民の盗鋳を防がんと欲し)」とあるのに続いて「乃禁不得挟銅炭」とあるのが見いだされる。

この場合の他動詞は「挟」、目的語は「銅炭」であって、民が銅銭を盗鋳するのを防ぐために、そこで「盗鋳のために必要な銅と炭を貯蔵することを禁止した」というのである。

ところで、『史記』秦始皇本紀に「禁不得祠……」とあるのを仏教寺院を禁圧したことと解するのは韓氏が最初ではないらしい。

前世紀の仏教史の大家である湯用●(タン・ユントン)氏の名著『漢魏両晋南北朝仏教史』は、その第一章「仏教入華諸伝説」において仏教の中国初伝に関する諸説に検討を加えているのだが、「不得」を仏陀の音訳とする「日人某」の説を紹介し、「藤田豊八の説に係るに似たるも、但だ余は未だ原書を見ず」と注記した上、成立しようのない説として退けている。

ともかく韓氏の主張は、傾聴に値する新説とはいえそうもない。奇をてらっただけの珍説とすべきものであって、とても賛成することはできない。韓氏は秦の始皇帝以前における古代中国と西方との交流にも言及しているものの、言及はごくごく一般的な事象に関しての事柄にとどまり、早い時代に仏教が中国に流伝していたことを物語る文物の存在が示されているわけではない。

多大の興味を持って読み始めただけに、見事に肩透かしを食らわされたという感があるが、考えてみればこの種の珍説が世間に喧伝されることも決してまれではないのである。

●=丹の右に彡