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日常の生活の中で仏教の占める位置

2009年5月19日付 中外日報(社説)

かつて、日本という国の"一体性"はある意味で常識となっていた。しかし、この国も実態としては重層的であり、あるいは多元的な成り立ちを持つと考えるべきで、そのような認識も徐々に共有されつつあるように思われる。

例えば、一口に日本仏教というが、それぞれの宗派が今日の姿をとるまでには複雑な歴史的過程があったことは言うまでもないだろう。個々の寺院にしても、創建、中興、再中興などの歴史を重ね、その中で寺運の盛衰は避けられず、宗旨が変わったり、廃寺の運命をたどった例も少なくない。

明治の廃仏毀釈はともかく、近代以降、こうした寺院の栄枯盛衰はむしろ穏やかで、とりわけ、現在の宗教法人制度ができた戦後は、社会の劇的な変動の中で宗教法人制度自体の存在が寺院の廃絶などを多少なりとも抑えてきた側面があるように思われる。その反動で、今、不活動宗教法人問題が浮上しているわけだが。

ところで、ある地方を訪れた際、平安時代に成立し、発展を遂げた某宗派の寺院の所在地は、住民の住む平地より一段高い場所にあるのだ、と聞いた経験がある。この地方、特定の宗派に限らず、筆者には苦労して長い石段を上って寺社に参拝した思い出も少なくないのだが、地元の住民にとってはその宗旨の寺院が高い所にある、ということ自体、何らかの特別な意味を持つと認識されているのだろう。

丘の上に神社が所在し、その麓に寺院が位置しているので、ひょっとするとこれは両者の固有の関係を反映しているのかと考えたこともあった。だが、地元の人に聞いてみると、実は川の氾濫に悩んだ住民の意向で、近代になってから、神社が丘の上に移動したのだという。思い込みはとんだ誤解を招くものだ。

いずれにせよ、古代以来、神仏が坐す聖地は高い場所にあったケースが多い。それに対し、信長・秀吉・家康は、神仏中心の地勢的観念を一転して、人間本位の社会づくりを試みたという説を聞いたことがある。

その所見に従えば、地方の宗教施設が一段高い場所に所在するのは、近世以前の聖地感覚が地方では歴史的に継承されてきたものといえるだろうか。

筆者の意見では、平安仏教から鎌倉新仏教への展開の中で、仏教が人間の衣食住すべてにかかわる度合いはそれ以前の時代と比較して格段に深まった。鎌倉新仏教の教学的革新は、同時に現実的な、人間としての日常の営みの面で大きな意味を持っていたのではなかったか、ということである。

話は変わるが、国内でもキリスト教の教会がメーンストリートに面して建てられている光景をよく見る。それに対して、東京などでも、例外を除けば、一般に寺院は主要道路から参道をたどって一本内側に入った所に所在する印象がある。奈良・平安仏教の伽藍が山地に豪華に建てられた伝統を受けて、都市部に進出した鎌倉新仏教においても、一段と奥まった場所を聖地とする感覚が受け継がれたのであろうか。あるいは、都市の発展の中で、メーンストリートから外れ、町並みに埋もれてしまったのだろうか。

ニューヨークを訪れた時、街の真ん中に大教会が厳然として建立されている光景を見て圧倒された記憶がある。それをお手本にすべきだ、などという気持は毛頭ないが、都市の中に埋もれ、あるいは過疎化した町の外れの高みに、訪れる人のまれな伽藍が立つ光景との対比が脳裏をよぎるのは避けがたい。

寺院が町の中にしっくりと溶け込み、あるいは山里の風景の一部を形作る姿は地域の社会生活に深くかかわってきた歴史を反映するものではあろう。だが、地域社会とそこの人間関係自体が空洞化しつつある現実も考えざるを得ないのである。

グローバル化が喧伝され、世界が小さくなってしまった中で、おそらく寺院もこれから変化を迫られてゆくことであろう。寺院が人々の生活に身近な存在であり続けるためには、意識的な努力が求められる。伝統教団もこの課題を正面から受け止めてゆく覚悟が必要だ。