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読者のニーズをどう尊重するか

2009年5月12日付 中外日報(社説)

「よい本ができました。ぜひ読んでください」と言って、二冊の本を頂いた。著書Aは東京で出版されたもので、仏教史の流れを追う内容である。著書Bは京都で出版の翻訳書。日本人になじみの薄いアジアの仏教国の農村生活を紹介する内容で、現地人の書いた原稿の邦訳だ。

Aの著者は、仏教だけでなくキリスト教やイスラム教、自然科学にも造詣が深い。そのためか本の中の至るところに、仏教以外について詳細な解説文が登場する。だから読者としては、そのページに書かれたことが、本全体のテーマとどうかかわるかを見逃すことになりかねない。仏教史以外についての記述を最少限度に抑えたら、さらに分かりやすい本になったのでは、と感じた。

もう一冊のBは、その国の人々の仏教観が日本人と似ているところと、そうでないところが端的に表われている。だがその第一章には、原著者の出身地の地名が、詳し過ぎるほど丁寧に記されている。土地勘のあるその国の読者には、よく分かるに違いない。しかし日本人の読者には、初めて見る地名が多くて気疲れする。添えられた地図も、あまり親切とは言えない図柄なのである。思い切って第一章を割愛するなり、日本人に分かりやすい地図を作るなりの工夫はできなかったであろうか。

AもBも、出版社や著者らが言うように、確かに「よい本」である。しかしその内容は、書く側のニーズ(必要性)だけが重んじられている。どんな表現にしたら読む側のニーズに応えられるかの配慮が欠けていると感じた。

編集者は、原稿の最初の読者であるという。昔の編集者はしきりに著者に注文を付け、分かりやすく、メリハリの利いた文章仕立てになるよう、書き直しを求めたものだ。今もそのような編集者は多いが、一部には字数やページ数の勘定に終始する人が増えた、との見方もある。

読む側のニーズ重視が望まれるのは、新聞でも同じである。先日、西日本の地裁では、ニュースソースの秘匿をめぐって広く注目を集めた公判に判決が示された。同じ日、東京では週刊誌報道のあり方について、出版業界の論争を進展させる動きがあった。各紙は二つの大ニュースをバランスよく伝える紙面作りに苦労したようだ。

その中である社の大阪本社版は、極端なまでに裁判記事重視のシフトをとっていた。これには、大阪本社の記者多数を動員しての取材だったから、それらの記者の書いたものをできるだけ紙面に拾い上げる、との姿勢が感じられた。つまりその新聞は、発信する側のニーズ中心に紙面が作られたことになる。このためその新聞の読者は、東京の出版業界の動きについては、ごくわずかの情報しか与えられなかった。

同じようなことは、テレビでも起こりがちだ。オリンピックや、大きな国際競技大会で、日本の選手が早々と予選落ちをすることがある。視聴者は、国際大会はもういいから、別の番組を見たい、と願う。ところがどのチャンネルも、日本選手のいない競技場を、延々と放映する。

スポンサーとの契約もあろうし、大取材陣を現地に送り込んだという社内事情もあろう。どの国の選手にも公平な声援を、というタテマエ論は分かるが、先のWBC大会のように日本選手の優勝争いを見たいというのが人情だ。こうして全国のテレビには、発信者のニーズで制作されたしらけた画像が、最終日まで流される。

テレビや新聞と違って、宗教界の法話や説教は、発信する側のニーズを信徒に充分に伝えなければならないが、同時にそれが、受ける側のニーズに同調させなければならないという難しさがある。「法悦」という字の意味を再認識する時ではないだろうか。