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客観的な現実と内的経験の現実

2009年4月28日付 中外日報(社説)

外の世界があり、内の世界がある。また、外から見られた現実があり、内から見られた現実がある。「外の」世界とは、ひとくちでいえば、自然的また人間的な環境世界のことであり、「内の」現実とは、平たくいえば、こころの現実のことである。

ところで、外から「見られた」現実、また内から「見られた」現実とは、例えばこういうことである。

指先が痛い。見るととげが刺さっている。さてとげが刺さっているとは、外から見て客観的に記述すれば、とげが皮膚を破り、肉に刺さって神経を刺激し、その刺激が電気信号に変換されて脳に達し、そこで指の異変として処理されることだろう。

この場合、刺激と認識の過程はすべてわれわれの身体における物理的・化学的な反応として記述されるが、その記述の中に「痛み」は入ってこない。というのは痛みという「感覚」は、それ自体としては電気のような物理量でもないし、生体を構成する化学的物質でもないから、経過の物理的・化学的記述の中には入ってくる余地がないのである。

しかし「痛み」は厳然たる感覚的事実であって、生きている人間にとっては一大事だ。

大脳のはたらきを「外から見」れば、それは神経細胞の活動、さらには物質の物理的・化学的反応に還元される。その中には「痛み」は存在しないし、一般に「感覚」は存在しないのである。それらは、あるけれども計測されないのではなく、単純に存在しないのである。

他方、感覚は内的世界の重要な事実であって、これが全くなければもはや生きているとはいえない。一般に感覚、感情、思考、意志などの「こころ」の営みは、「外から見」れば単純に非存在で、記述されようがない。

われわれは、例えば牛がけがをしているのを見ると、きっと痛いのだろうと思う。それは「内から見る」見方であって、つまりわれわれは、同様な場合に経験する自分の痛みを牛に投影するのである。われわれは、そのような「投影」は正当だと信じているが、実際に牛が痛がっているのかどうかは、牛は言葉を語らないから確定しようがない。

しかし科学的に(つまり外から見る見方で)調べると、けがをした牛の脳内にエンドルフィン(モルヒネのような一種の麻酔物質)が分泌されていることが確認されるということである。だから牛にも「痛み」があるというのだが、それは「外から見」た間接的な推定にすぎない。

さて、もしそういうなら、私の感覚は私の感覚であって他人の感覚と同じかどうかは確認しようがないから、全く同様なことは人間同士についてもいえるのであって、AさんならAさんがけがをしても痛がっているのかどうかは、「客観的には」エンドルフィンの有無を確かめることで間接的に知るほかはないことになる。

当然のことだが、わざわざそんな検査をする必要はないのだ。結論を簡単にいえば、他の人なり動物なりが「痛がっている」と考えるのはやはり正当なのだ。自分の切実な内的経験を他者に「投影」するのは、つまり現実を「内から見る」こと(自分の経験を他者に投影して得られる知)は「非科学的」ではない。それは科学と競合してそれを否定することではないからだ。

それは事柄を科学のように外から見るのではなく、他者を自分の内的経験からして「内から見る」ことであって、そういう見方が存在するということは、科学には見えない現実が見えるということである。

以上が当然ならば、宗教についても同様なことがいえる。宗教は――宗教といってもいろいろではあるが――内的な現実、すなわちわれわれの内的な経験と自覚にあらわれるはたらきを述べるもので、これが宗教言語の中心部を形作る。

仏性とか神とか超越的内在とかいう言葉はそういうものである。それらは客観的現実ではない。そのような現実は客観的・科学的な見方、つまり「外から見る」見方にとっては確認されない非存在にすぎないのである。しかし「その」経験と自覚から見るとき、人間だけではなく、世界全体も「その」はたらきの中にあると語られ、理解されるものだ。一輪の花が神のはたらきを宿すという感覚がそうである。

それに対して近代世界とは、科学が技術と結合して商品生産の過程に組み込まれ、政治も法律もこのような経済体制を維持するために作られている。そこでは内的現実はむろんのこと、現実全体を「内から見る」見方も排除されている。そしてそれが、人間性のおそるべき貧困を招いているのだ。

人間性というものは内に経験・自覚されるものだからである。