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きずなを深める寺報の役割期待

2009年4月25日付 中外日報(社説)

京都市上京区の女性、Aさんは、孫が貯金箱にためていた硬貨を袋に詰めて、信用金庫へ行った。孫名義の通帳に入れてほしいと頼むと、窓口の係員は機械にかけて勘定し、金額は八千八百余円であると告げた。意外にたくさんたまっていたのに驚いたAさんを、第二の驚きが襲った。「硬貨が五百枚を超えています。手数料を三百五十円いただきます」。預金するのに手数料が要るなんて、とんでもないことだ。Aさんは思わず叫んだ。「支店長さんを呼びなさい!」

係員は、Aさんをなだめるように言った。「現在の金融機関は、江戸時代の両替商の伝統を継承しています。両替商は、手数料で稼ぐのが身上でした。どうかご理解を」。それにしても八千数百円預けて三百五十円も取られる。この低金利時代に手数料分をカバーするには、いったい何年かかることやら……。

この話題を紹介したのは金融機関の批判をするためではない。Aさんが体験談を発表したのが、檀那寺の寺報であることを伝えたかったからである。この寺報にはAさんだけでなく、多くの檀信徒から毎号、さまざまな手記が寄せられ、反響を呼んでいる。

一方、大阪府内のB寺院の寺報には、俳句のページがあり、毎号、多彩な句が寄せられている。住職が選者役だが、選者詠よりレベルの高い作品が出ることも珍しくない。ほほ笑ましいのは、家族の消息を詠んだ句である。

寺報を発行する寺院は多いが、寺の行事予定を告げるなど、お知らせものばかりだと、マンネリ化することもあろう。この二つの寺報のように檀信徒も積極的に参加し、双方向から発信し合う習慣をつくれば、寺を中心とした情報網が確立するのではないか。

このように、寺報によって檀信徒とのきずなを深める寺がある一方で、宗教者抜きの直葬や家族葬が増える傾向が憂慮されている。先日の朝日新聞の読者投稿欄には、家族葬をめぐる二つの意見があった。

◇その一=独り暮らしの七十五歳のCさんが亡くなった。離れ住んでいた子供たちが、家族だけで送ると決めた。日ごろCさんの通院を車で送り迎えしてきた隣人のDさんは、ついに葬儀に連なることができなかった。

◇その二=もう一人、同じ七十五歳で亡くなったEさんの楽しみは、歌謡教室に参加することだった。この人の場合も、いったんは家族だけで送ると決められたが、仲間たちが頼み込んで、出棺の時にEさんの愛唱歌を合唱した。後日、Eさんの娘さんから「亡き母が地域であんなに楽しく暮らしていたことを知りませんでした」と、感謝の便りが届いた。

この二つの葬儀に、宗教者がかかわっていたかどうかは記されていない。しかし家族葬の場に宗教者がいたとしても、その人は平素からこの家族に、あまり親しく接していなかっただろうと感じられる。

老人が独り旧居を守り、息子や娘たちが独立して離れ住んでいたとしても、その間の事情を温かく見つめる"住職の目"が働いていたら、その口添えで故人を生前、家族も及ばぬほど世話をしてくれた隣人が葬儀の場から閉め出されることはなかったはずだ。

本紙でもすでに触れたように、アカデミー賞を受けた映画「おくりびと」に宗教者が登場しないことを指摘し「宗教者こそ真の『おくりびと』となるべきだ」とする意見が高まろうとしている。だが、葬儀の時に導師席に着くだけでは、真の「おくりびと」にはなり得まい。平素の寺檀関係の強化に寺報の働く場があるといえないだろうか。

文章や俳句の寄稿はもとより、スナップ写真を入れることもできるはずだ。独り住まいの老人を孤独のままに放置しないことが、真の「おくりびと」の使命といえないだろうか。