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これでよいのか職業倫理の衰弱

2009年4月23日付 中外日報(社説)

権力や人を批判するジャーナリズムには、特に厳しい職業倫理が求められている。中でも何ものにも迎合しない批判精神が、ジャーナリストの職業倫理に欠かせぬ大事な属性とされる。昨今、ジャーナリズムの衰弱とジャーナリストの批判精神の衰えを懸念する声が強い。一つの要因が、販売部数や視聴率競争の過熱、つまり営業優先主義にあることは否めない。朝日新聞阪神支局襲撃事件をめぐる誤報で、『週刊新潮』が四月二十三日号に出した謝罪記事は、それを象徴するようだった。

この問題については既に四月十一日付本欄が触れているが、筆者は、二十二年前、兵庫県西宮市でこの事件の報道現場の渦中にいた者の視点から、この問題を検証してみたい。

『週刊新潮』の四回シリーズは、昭和六十二年五月三日の「憲法記念日」に起きた阪神支局事件で「実行犯」を名乗る人物の準備段階の手記から始まった。その初回(二月五日号)から筆者は「これは違う」と感じていた。ポイントはいくつかあるが、ここでは犯人像に絞る。

事件後の捜査当局の情報や周辺取材などで、実行犯は闇の中からこつ然と姿を現わした、不気味なほど冷徹な人物を想像させた。それほど支局に押し入った犯人の行動は寡黙で沈着だったようだ。「赤報隊」の名で報道機関に届いた犯行声明文も思想的な確信犯を思わせた。それに対して、今回の手記から伝わって来たのは冗舌さと軽々しさでしかない。まるで異質なものだ。

現在取材に当たっている全国紙の記者も「過去も現在も、捜査当局が問題にもしていない人物」と話していた。

もとより事件報道は人権にかかわることが多く、人の一生を狂わせてしまうことさえある。だから取材、報道は慎重の上にも慎重を期すものだ。日本新聞協会の新聞倫理綱領は「新聞は歴史の記録者であり、記者の任務は真実の追究である。報道は正確かつ公正でなければならず(略)」とうたっている。共にジャーナリズムを担う週刊誌にも通じる原則であろう。

同誌の謝罪記事には既に厳しい批判が出ているが、問題点は記事中の次の文章に集約される。

「『自分が実行犯だ』と名乗りを上げた人物がいてその証言について取材し、『真実相当性がある』と判断し、手記を掲載した。そのミスリードによって結果的に誤報となったことはお詫びするしかないが、報道機関が誤報から百パーセント免れることは不可能だと言える。ましてや週刊誌の使命は、真偽がはっきりしない段階にある『事象』や『疑惑』にまで踏み込んで報道することにある」

一理あるようにも聞こえるが、つまるところ証言を翻した手記の主に対する恨みつらみと開き直りでしかない。阪神支局事件では前途有望な若手記者が殺害され、もう一人が重傷を負った。歴史上、言論テロは数多いが、新聞社の社屋に乗り込んで記者を殺傷するという、極めて特異なテロだった。その重大さをわきまえているのかどうか。また、上述したように相手の冗舌さに違和感を感じなかったのだろうか。数々の不審から、結局「これは売れる」という営業優先路線の暴走と思わざるを得ないのである。

新潮社では、誤報について社内処分をしないばかりか、誤報掲載を取り仕切った編集長は取締役に昇進とか。一般社会の倫理観では理解しがたい。営業に貢献したと評価されたのか。

話題を冒頭に戻すと、職業倫理は歴史をたどれば、儒教や仏教に行き着くと考えてよさそうだ(末木文美士著・岩波新書『日本宗教史』)。もちろん現代の職業倫理と趣が違う点があるが、普段から自覚し磨いておかないと退化することに変わりはない。ジャーナリズムに身を置く人間は、とりわけ心すべきことだ。

週刊誌に限らず、販売部数や視聴率争いが激化する中で、ジャーナリズムの最後の支えも個々の記者の職業倫理にある。それをあらためて強調しておきたい。