ニュース画像
庭儀で明著堂に進む光淳門主
主な連載 過去の連載 エンディングへの備え
苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
購読のお申し込み
新規購読キャンペーン
紙面保存版

「求道心」こそ前提

2009年4月14日付 中外日報(社説)

今日、日本仏教の僧侶の俗化が著しく、あまつさえ例外的とはいえ、人道的立場から見てさえ恥ずべき事件が世間の話題となり、これらによって一般社会からの仏教僧侶に対する批判が日ごとに高まっている。そういう傾向の中で、ひたすら宗教者の道を実践している多くの僧侶たちの努力が見逃されやすいことは、まことに遺憾なことではある。

仏教僧侶に宗教的自覚を見失わせ、容易に職業的な生き方を許してしまう土壌が、現代日本の葬式仏教を支えていることは否めないが、問題の本質はやはりそれに悪乗りして、自己欺瞞的に生きようとする僧侶の側にあることは言うまでもない。

端的に言って、現今の日本の仏教僧侶には在家生活から出家に至る質的転換のプロセスがまったく欠如している。嫌々ながらずるずると坊さんになっていくという、なんともメリハリの利かない職業的移行には、基本的に仏道実践者としての「道心」が欠如している。

それを支えるように僧俗一体という在家仏教独特の負の要素が絡んでいる。その出家者と檀信徒とのなれ合いのようなものが、また日本仏教の特色のようでもあるが、これが宗教的な堕落の要素になることは免れない。

そもそも、仏教僧侶であることのまず第一の条件は、「出家」であるということ、すなわち俗的執着との決別にあるのだ。それが「割愛の情」といわれるように、出家はただ俗家を出るということではなく、俗との決別であり、そのためには並々ならぬ「求道心」がなければならないはずである。

「求道心」あるいは「発心」は、無辺の衆生を悟りの岸に運ぼうとする慈悲心とそれを起こすための智慧を得ようとする願心である。これが出家者となることへの前提条件であり、出家者であることのアルファでありオメガである。しかし実際問題として、出家者「になる」ことはやさしいが、出家者「である」ことは難しいのである。

今日、臨済宗の修行道場では入門者に対して、「初発心の時、便ち正覚を成ず」という『華厳経』の一句をもって、入門者の願心を喚起するのを通例としているのはそのためであろう。

仏道修行の目的である正覚(悟り)は、仏道という荊棘林(けいきょくりん)の一路を突き進まんとする強い「初發菩提心」において、既に成就されているというのである。

これを裏返せば、求道心のない者には、たとい何十年の修行を続けようとも、仏道の成就はかない難しということになる。かの徳川期臨済宗の白隠が、「勇猛の衆生の爲には、成仏一念に在り。懈怠の衆生の爲には、涅槃三祇に渉る」(白隠『壁生草』)と説かれたゆえんである。

出家者ばかりではない。在家信者の歩む四国霊場の道でさえ、巡礼は「発心の道場」に始まり、それが修行の道場・菩提の道場・涅槃の道場への前提になっているくらいである。求道心がなければ修行も悟りもあり得ないことは、大乗・小乗に共通している認識である。

にもかかわらず今日の日本仏教の僧侶にこの認識が忘れられているとすれば、日本の仏教そのものは、もはや仏教でさえない。ただ「剃頭の俗人」の率いる愚蒙な世俗集団として、世界宗教の座から排除されるだけである。

今、日本の仏教に期待されていることは、指導者としての僧侶自らの品位の回復と、それによってのみ可能な宗教的指導力の発揮である。

僧侶たちはそのための自浄努力を惜しんではならない。そしてその具体的実践内容は、僧侶一人一人の新たなる宗教者としての自覚と、彼の率いる信徒たちとの熱い宗教的連帯による現代世界への関与でなければならない。