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テレビがらみの話題に思うこと

2009年4月4日付 中外日報(社説)

約四十年前と記憶する。奈良のA寺院で、恒例の大法要が営まれた。数日後、ある新聞に読者の投稿が掲載された。「A寺院で法要が始まると、テレビ中継のため三人のNHKのスタッフが入場し、本堂の中を歩き回りました。厳かな雰囲気が乱されました」

数日後、同じ欄に訂正記事が出た。「先日の投稿に『NHKのスタッフ』とあったのは、某民放のスタッフの誤りでした。NHKはこの法要を中継していませんでした」と。

放送業界の事情に詳しい人が言った。「私には、NHKではないと、すぐ分かりました。NHKはお役所的だから、照明係、カメラ係、コード係など職分が分かれていて、ほかの係の領分を侵さない。だから、ちょっとした中継でも十人以上が出動します。民放だと予算の範囲内であげる ・ ・ ・ ためアナウンサーがライトを運んだり、運転手が集音マイクの据え付けを手伝うなどする。法要中継を三人でこなすのは、民放に決まっていますよ」

そのころ、京都のB寺院の広報担当者がこぼしていた。「テレビが書院のふすま絵を映したいと言ってくる。畳や敷物を踏み荒らしてカメラを配置する。ライトの電源は、当然のような顔で寺のコンセントから。何度もヒューズが飛ぶし、電気のメーターがぐんと上がる。先方は、寺の宣伝をしてやる意識かもしれないが……。今後、テレビはお断わりです」

これはあくまでも四十年前の話である。そういえばNHK前アナウンス室長の山根基世さんが、先日の日本経済新聞のコラムに、要旨次のような思い出話を寄稿していた。

山根さんの時代の取材チームは原則六人。ディレクター、カメラマン、照明マン、音声マン、リポーターに運転手。リポーターは、アナウンサーか放送記者のことらしい。

「アナウンサーの私が照明器具を運んだり、片付けを手伝ったりするのは当然のこと。先輩の振る舞いを見ていれば、自然に身に付く行動だった」と。

さらには「その頃は年かさの運転手さんが(取材先へお邪魔して)靴を揃えて上がらない若いディレクターを叱ったり(中略)経験豊富な照明マンは若いカメラマンに、機材は必ず持参した毛布などの敷物の上に広げること、カメラの三脚は、脚の先を雑巾(ぞうきん)で拭き、軍手を履かせて据えることなどを教えていた」と。

こうした振る舞い方がそれぞれの会社の「文化」だった。その文化を伝えるために、NHKでは職域を超えて、互いが育て合っていた、とも記している。

だが"効率化"が進むにつれ、下請け会社の外部スタッフが増え、取材チームでNHK職員は山根さんだけという事態も生じた。互いの遠慮から言いたいことも言えず、片付けを手伝おうとしても恐縮し、迷惑がられるようになった……。山根さんの寄稿は、ここで終わっている。

一方、最近の一部民放では、番組一つを下請けや孫請けに丸投げするケースが出てきたという。制作費の切り詰め問題がからむと、内容チェックも甘くなる。ついには効果のない健康法が有効であるとされたり、根拠のない証言が事実と報じられたり。責任問題で民放社長の辞任も伝えられるほどだ。

テレビ放送が始まって五十余年、さまざまな試行錯誤のうちに、テレビが社会になくてはならぬ存在になったのは事実である。この現実を見て、ふと友松圓諦氏の遺著『法句経講義』の一節を思い出した。

「おのれこそ/おのれのよるべ/おのれを措きて/誰によるべぞ/よくととのえし/おのれにこそ/まことえがたき/よるべをぞ獲ん」。報道人がおのれをよるべとするためには、平素いかなる心掛けが必要か。山根さんの寄稿から、その一端を学び取りたい。