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"宗教上の理由"は辞退理由に追加を

2009年3月31日付 中外日報(社説)

賛否両論分かれる裁判員制度が五月二十一日からスタートする。司法制度改革審議会(平成十一年~十三年)の提言(法科大学院設置もその一つ)を踏まえて設けられた制度で、地方裁判所で扱われる刑事事件のうち殺人罪、身代金目的誘拐罪など重大な事件について、無作為に選ばれた市民が裁判官と合議で裁判を行なうことになる。

権威的、閉鎖的な裁判制度に市民的常識を取り入れる、という趣旨が示され、「国民のみなさんが刑事裁判に参加することにより、裁判が身近で分かりやすいものとなり、司法に対する国民のみなさんの信頼の向上につながることが期待されています」(最高裁判所ホームページ)と、狙いが説明されているが、この"期待"が国民への裁判員の職務強制につながるという理屈は、必ずしも多くの人々の理解を得ているわけではない。

三年後の制度見直しが予定されてはいる。だが、制度上の問題点はすでに数々指摘されており、いちいち挙げればきりがない。

そもそも無作為に選ばれた六人の裁判員の参加でより質の高い公正な裁判が担保できるのか。裁判官にもない終身の守秘義務を適用した上で、死刑の判断など不当に重い責任を負わせることにならないか。それで「司法(制度)への信頼」が向上するのだろうか。

また、裁判員は公判前整理手続によってあらかじめ選定された争点で審理・判決することになっており、しかもかかわるのは第一審のみである。この面でも司法の側の御都合主義が感じられなくもない。

しかし何といっても問題なのは、それが"義務"であって、裁判員に選ばれた以上は基本的には拒否できない点だ。

日本国憲法は第一八条で「何人も……犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない」と定めている。一方、憲法上の国民の義務としては「教育の義務」「勤労の義務」「納税の義務」が三大義務として挙げられている。

裁判員の職務強制は憲法には存在しない新たな義務ではないか、憲法が禁じる「意に反する苦役」に服させることにはならないのか。疑問がなくはない。

さらに宗教者にとって深刻な問題は、辞退理由として思想信条、宗教上の理由がそれ自体としては認められないことだ。新法の審議過程では宗教上の辞退理由を認めるべきではないかという議論が出たが、結局、宗教上の理由が存在しても裁判官が個々のケースで「精神上の重大な不利益」があると判断した場合にのみ辞退が認められることになった。宗教者として世法によって人を裁くことはできない、といった宗教者の論理はそれ自体としては否定されるわけだ。

宗教的信念、思想信条を辞退理由から外す理由として最も頻繁に語られるのが、裁判員になるのは面倒だからそれらを口実に拒否する人間が続出する、という類の想定であるのは、たとえ根拠はあるとしても、宗教や思想信条に対して安すぎる値踏みであるというべきだろう。

むろん、世俗国家が、宗教者も宗教者である前にまず国民であり、国民としての義務を優先して遵守するべきだ、と求めるのは筋が通っている。ただし、宗教者の側からすれば、宗教者であり同時に国民であることが矛盾する場合もあるのだろうか、という自問自答に駆られる状況になるのかもしれない。

今回の裁判員制度については徴兵制度と比較する議論も聞く。その是非はともかく、この国で将来、徴兵制度が復活するようなことが仮にあったとしたら、宗教者である前に常に一国民であるべきなのか、義務を拒否すると「国民であると同時に宗教者でもある」ことが否定される(非国民のレッテルが張られる)のかどうかは深刻な問題になる。

裁判員制度に関して、そのような仮想の議論を持ち出すことは滑稽な印象を与えるかもしれない。

だが、制度見直しまで三年、宗教界から「宗教的理由」を認めるよう強く要求し続ける(それを個人レベルで実際に申し立てるかどうかは別として)のは宗教者の立場として当然のことだと考えるのだが、いかがだろうか。