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手話さえあれば充分だとの迷信

2009年3月26日付 中外日報(社説)

東京のある文学者団体は毎年一回、早春に、全国を巡回する形で、作家や評論家数人によるトークショーを開いている。有名な作家たちのナマの姿に接することができるというので、毎年、どの会場も満員の盛況である。今年の会場は西日本のA政令指定都市の文化ホールだった。

予告のチラシには、難聴者のために手話通訳と要約筆記のサービスがある旨が記されていた。だが当日、会場に配置されたのは手話通訳者だけだった。

要約筆記とは、本欄でも数回紹介したように、手話を判読できない難聴者のために、話の要点を手書きかパソコンで記し、スクリーンに拡大映写するシステムである。

なぜ要約筆記者が配置されなかったのかを主催者に聞くと、要約筆記は数人が机を並べて坐り、協力して内容を表示することになっているが、文化ホールには舞台下に、机を並べるスペースがないため、手話があれば事が足りるだろう、と判断したのだそうだ。

では、手話があれば難聴者に話の内容が伝わるだろうか。三月下旬のある新聞に、厚生労働省による「身体障害児・者実態調査」の内容が紹介されていた。それによると、聴覚障害者のコミュニケーションの手段(複数回答)は手話が一八・九%、補聴器や人工内耳が六九・二%、要約筆記が三〇・二%だった。手話の分かる難聴者は五人に一人以下の比率である。

中年を過ぎて聴力を失った人は、手話にはすぐになじめない。逆に、要約筆記は、だれにでも通じる。例えばある会場で、講演者が急に複雑な専門用語を持ち出した時、手話通訳者は対応できなかった。しかし要約筆記者は略語を使って表記、スクリーン映写を続けた。手話派はもとより、聴力のある人も、専門用語を文字で確認し、理解を深めることができた。このように要約筆記の実際上の貢献は、三〇・二%という数字より大きいと関係者から評価されている。

ところでこの厚労省の統計を伝える新聞記事は、近く発足する裁判員制度に、難聴者をどのようにして参画させるかを論じたものだった。耳が不自由だからといって、裁判員制度から除外してはならないことになっている。それにもかかわらず現実には「手話ができない難聴者や中途失聴者への対応は不十分」であると伝えている。

この問題は裁判員制度の実施が法律で定められた平成十六年以来、全国の難聴者・ボランティアの団体から、たびたび指摘されてきた。しかし昨年の秋、西日本のB政令指定都市で開かれたPTA関係団体主催の裁判員制度に関する勉強会に、講師として招かれた判事は「要約筆記については全く検討していない」と答えたという。

B市に隣接するC市でのボランティア団体の集会では、講師の弁護士が「裁判所には要約筆記の必要性をたびたび指摘してきたが、それに耳を傾けようとする気配が感じられない」と発言したそうだ。

前記新聞記事は「難聴者を交えたり、要約筆記を導入したりした模擬裁判は一度も実施されていない。最高裁が今年一月に公表した報告書も、手話を使う聴覚障害者には触れているが、要約筆記や筆談についての記述はない」と記す。

全日本難聴者・中途失聴者団体連合会(全難聴)は裁判員制度開始前の模擬裁判の実施を要望、最高裁側は「要約筆記は適切な方法を検討中」と答えたそうだが、五年間の空白を五月二十一日の実施日までに克服できるかどうか。

端なくも明らかになったのは、官(裁判所)でも民(文学者団体)でも「難聴者には手話さえあればよい」という認識が"迷信"のように定着していることだ。血の通った判決文や文学作品を書いてもらうために、なお一層の"教化"が必要とされよう。