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啄木の父一禎の標柱はいずこへ

2009年3月14日付 中外日報(社説)

平成十八年三月二十五日付の本紙に「現地に見る宗教史の風土・岩手編」が掲載された。僧侶の妻帯が公認され「寺族」が生まれた経過を、岩手県渋民村(現在は盛岡市)出身の歌人・石川啄木の一家の事情を例に探った内容だ。

それから派生した話題として、啄木の父・一禎を記念するプレートと標柱が、四国のJR高知駅周辺に設置されていたことにも言及した。その"続報"が三月九日付の毎日新聞高知版に掲載された。

幕末に生まれた一禎は、明治二十年に渋民村の曹洞宗宝徳寺の住職になった。火災で焼失した本堂を復興再建したが、宗費を滞納して明治三十七年に僧籍を剥奪され、宝徳寺住職の座も失った。長男・啄木の借金返済のためともいう。

妻や啄木に先立たれた一禎は、やむなく啄木の姉とらの夫、山本千三郎のもとに身を寄せた。千三郎は当時の鉄道省の職員で、大正十四年(一九二五)一月、神戸鉄道局高知出張所長に任命された。一禎も同行、約二年後の昭和二年(一九二七)二月、数え年七十八歳で死去した。

「啄木の父・石川一禎終焉の地」と記されたプレートと標柱は平成四年(一九九二)十二月、当時の「高知県歌人協会」が、波乱の生涯を送った一禎と啄木を追悼し、有志歌人が千円ずつ拠出して設置したものらしい。一禎の住んだ鉄道官舎はJR社宅街に変わり、歌人協会は死去の地にプレートを設置、通行者の多い駅前広場に案内のための標柱を立てた。

観光客の一部からは「なぜ啄木の父が千キロ離れた高知に?」の声が上がっていたが、本紙に記事が出た平成十八年には、高知駅を高架駅化するための再開発工事が進行中で、JR社宅は取り壊され、プレートも標柱も高知市役所に保管されていた。

昨年、毎日新聞高知支局に赴任した大澤重人支局長は、やはり「なぜ一禎が高知に?」と興味を抱き、関係者からの取材を進めた。歌人協会は解体、事情を知る歌人で死去した人もあるが、現在の歌壇関係者によると、歌を詠む仲間としての石川一禎父子への親愛の情の表われがプレートと標柱になったようだ。一禎も歌を詠み、四千首に近い歌稿「みだれ芦」を残している。一方、啄木は自ら歌を詠むだけでなく、最後の職場の東京朝日新聞社では歌壇選者を務めた。

ところで現在、プレートと標柱の保管場所は、高知市役所からJR四国高知企画部の倉庫に移っていた。大澤支局長によると、標柱などの今後については「未定」ということだ。駅前再開発着工当時には「完成後の駅前広場に立てる」との意向だったが、大不況で、標柱やプレートにまで手が回りかねているのではないか。啄木がらみだけに、粗末には扱えないし。

「終焉の地」の標柱は木製だから、やがて腐朽するだろう。筆者はかねてひそかに、高知と岩手の歌人の協力により、小さくとも石造の碑に立て替えることはできないだろうか、と願ってきた。

一説によると一禎は、宝徳寺に入る時、死去した前任住職の家族を追い出すような工作をしたという。しかし平成十九年早春、筆者が同寺を訪れた時、寺族の一人は「一禎さんは明治十年に焼失した本堂を復興してくださった大恩人です。だから歴代和尚の墓と並んで、『一禎大和尚の墓』を建立しています」と言い、残雪を踏んで卵塔の前へ案内してくれた。

大澤支局長によると、標柱建立の日、高知の歌人たちは「父とわれ無言のままに秋の夜半ならびて行きし故郷の路」という啄木の作品を朗詠した。大澤記者は「せっかく建てられた標柱の行き場がないのは残念でなりません」と記した後、次の一首で記事をしめくくっている。「異郷の地倉庫に眠る道しるべ今なお続く放浪の旅」