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いま問い直すべき教団仏教のあり方

2009年3月7日付 中外日報(社説)

明治維新の神仏分離令・廃仏毀釈後、明治五年(一八七二)に発布された「肉食・妻帯・蓄髪勝手タルベキコト」という太政官布告は、わが国の仏教が江戸時代までの出家仏教から在家仏教へと一大変革を遂げる契機となった。

かつては僧綱所が自主的に僧尼を管理統轄していた。それはわが国が律令国家であった時代に、仏教を国家体制に組み込むため養老二年(七一八)に制定された僧尼統制のための法令である僧尼令に基づいている。

平安初期になると各宗が毎年極めて限られた人員の得度候補者を選出し学業のテストをしてから、国家の公認を得なければならなかった。したがって任命された者は官僧である。だから僧階の昇補・辞任も勅許が必要であった。後には形式的にもせよ、江戸時代後期まで国師・禅師・僧正など高位の昇補には勅許がなければならなかったのである。

かつては、このような官僧に対して、僧綱所の許可なくして出家得度した者は、私度僧として差別された。

先の太政官布告であるが、太政官の制度そのものは律令制の奈良時代までさかのぼる。だが、慶応四年(一八六八)の明治政府による政体書によって設けられたものは最高官庁であって現在の内閣に相当する。そして太政官布告は明治元年(一八六八)から明治十八年(一八八五)に内閣制度が成立するまで、太政官が公布した法令の形式である。

いずれにせよ、この一篇の布告によって日本仏教は変革の一途をたどることになった。それは時代の趨勢の趣くがままに、というべきであろう。だから、近代を迎えた日本仏教界自体の自主独立的な改革ではなかったことに留意しなければならない。いわば教団仏教は外的要因によって、なし崩しに世俗化の途をたどるのを余儀なくされたといってよい。

太政官布告から今年までにすでに百三十七年の歳月を経た。そして、ありていにいえば、明治期以来の教団仏教の近現代化という避けては通れない時代的な重い要請が取り残されたままであった。

もちろん、明治時代には例えば「僧風一洗」を合言葉とした教団仏教の主体的な緊縮活動を展開する一時期があった。あるいは仏教界は時代に迎合して「仏教国益論」を主張して教団仏教を擁護する風潮を高めた時もあった。

個別的には明治期に真言宗の釈雲照(一八二七-一九〇九)の十善戒運動、また真宗大谷派の清沢満之(一八六三-一九〇三)の宗門改革と一般社会を対象とした精神主義運動の展開などがあった。さらに新仏教運動の社会的反響も看過し得ない。第二次大戦中には妹尾義郎(一八八九-一九六一)の新興仏教青年同盟(戦後は仏教社会主義同盟)の結成実動が認められる。

だが、仏教界全般で教団仏教の革新あるいは新教学の構築などの波が起こるような気配はなかった。教団内部の近代的な自己改革や教学的思想的な近代化は避けて通れない重い時代的課題として、それらを抱え込んだまま現在に至っている。

ところで、この問題は教団外でも、例えば学界で現代仏教を研究対象とする場合にも容易に触れたがらないようである。その主因の一つは近代仏教が明治期以降すでに長い歴史的経過の中で、その是非・批判はともあれ、すでに在家的性格が既成の事実として、あるいは日本仏教の特異性として暗黙裏に是認されてしまっているからではなかろうか。

まずは既成教団の得失点の検証から進めてみてはどうか。在家的であるがゆえの宗教的、社会的、文化的得点は日本仏教の特質としてさらに助成してゆけばよい。そして、今日の教団仏教が時代に即応するためには現在の新戒律すなわち聖職者倫理を確立することも急務であるというべきだろう。

二十一世紀を展望するならば、教団仏教の前向きな力強い発展のためには、その在り方と宗教的社会的な責務に対する、よりグローバルな問い掛けを今後一層力を入れて続けてゆかなければならないことは確実である。