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社会のニーズと宗教

2009年3月5日付 中外日報(社説)

暗いニュースがあふれる毎日だが、滋賀県内のある自治体は、派遣切りで職も住まいも失い、公園に野宿していた男性に、その公園を住所地として生活保護の支給を決めたという(二月十六日毎日新聞夕刊)。生活保護は最後のセーフティーネットであるが、その申請は通常、住民票がないと受け付けてもらえない。多くのホームレスを苦しめているハードルの一つだ。

記事によると、この自治体職員は厳冬期に「公園生活は過酷。人間として見捨てられなかった」と言い、男性にアパートの礼金、敷金も支給する手続きを取るなどして警備員の仕事に就かせた。男性は「あのままだと死んでいた」と言っていた。役所として当然の仕事ともいえるが、職員の"菩薩心"が一人の命を救ったことは間違いない。

言い古された言葉だが、闇が深ければ深いほど、小さな光も明るく輝く。上記の記事が社会面のトップで大きく扱われたのも、昨今の世相の反映なのだろう。

この報道で、もう半世紀も前に提訴された「朝日訴訟」を思い出した。当時の生活保護法の保護基準が、生存権を定めた憲法第二五条に違反するかどうかが争われ、社会的に注目を集めた裁判だった。「朝日」は原告の姓である。

「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」

憲法は、そううたっている。同訴訟は、生活保護を受給している原告が支給額は低過ぎるとして起こし、一審で原告勝訴、二審で逆転敗訴と判決が分かれたが、その後原告が死亡したことで昭和四十二年、最高裁の「訴訟は終了した」との判決で終結した。

ただ、最高裁判決は何が健康で文化的な最低限度の生活かの認定は、厚生大臣(当時)の裁量との判断を示した。

当時、法学部の学生だった筆者は、聞きかじりの学説をあれこれと持ち出して「二五条は国民の具体的な権利を定めたもの。国の裁量に任せるというのなら空文化してしまう」などと、サークル仲間で熱心に論争し合ったものだ。

あれから四十年余がたち、憲法の生存権を語る言説は、ほとんど耳にしなくなってしまった。ボランティアをしたい、という学生たちに「朝日訴訟」のことを聞いても、きょとんとした顔をするだけだ。基本的人権は学んでも、国民の生存を保障するべき行政の責任については教えてもらわないようだ。

日本は「すべり台社会」という意見があって、生活保護でさえ「水際作戦」と称して役所が申請を拒むことが多いことを以前、この欄で触れた。冒頭で紹介した男性は、むしろ幸運だったというべきだろう。しかし、日々の報道は昨今の底の見えない不況で同じように生死の境に近いところで生活している人が少なくないことを懸念させる。それが「健康で文化的な最低限度の生活」といえるのか。憲法第二五条の規定に、今あらためて光を当てることも、むだではあるまい。

ところで、最近、宮城県の僧侶が「駆け込み寺」を設け、路上生活者らを受け入れているという記事が新聞に載り(二月七日朝日新聞朝刊)、本紙にも札幌市の浄土真宗本願寺派の寺院の同様の菩薩行が掲載された。仏教界に、不況に対応する具体的な動きが目に見える形で出ていることを喜びたい。

ただ、このような例が珍しいニュースとして取り上げられること自体、今の宗教界を取り巻く状況を考えざるを得ない。ひょっとすると、世間やマスコミからはこれらの活動が「闇の中の光」のように見えているかもしれない、と反省させられるのである。

このような社会の状況に対しては、宗教者が多少なりとも積極的に反応すべきだという認識を世間は共有し、それが宗教界を測る物差しになっている、と考えるべきであろう。

むろん、宗教者として本来なすべき当然のことが、マスコミなどの価値観とぴったり一致するとは限らないし、それはそれで仕方ない。マスコミの評価が目的ではないのだから。だが、そもそも評価の対象となり得る「内容」が乏しければ話にならない。その点で脚下照顧する必要はまだまだあるはずだ。