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苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
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仲間うち言葉に寄り掛かるまい

2009年2月28日付 中外日報(社説)

警察で「ユウカイ」という言葉を聞いたら、一般市民はどんな感じがするだろうか。まして、報道関係者の場合は。

三年前、ある新聞の記者が、担当している警察署へ行き、広報担当の副署長の所在を尋ねたら、受付にいた署員は「ユウカイで席を外しています」と答えた。一瞬、いたいけな子供の誘拐事件発生か、と身構えたが、それにしては署内は静かだ。そうか、毎日夕刻に開かれる「夕会」のことだと気が付いた。

朝礼や朝会なら、普通の学校や会社でも開かれており、耳慣れた言葉だが「夕会」は警察だけの用語ではないか。その仲間うち言葉が、記者をドキリとさせてしまった。

別の記者は、学校行事の取材をしようと電話をかけたが、目当ての先生が「シュウガッカツ」中と告げられた。何度も聞き直したら「一日の終わりのホームルームです」と説明してもらえた。「終学活」と書くのだろうか。これまた教育界の仲間うち言葉だ。

ついでに言うと約六十年前、現在の六三三制の発足時に出現した「ホームルーム」という言葉も、当時の保護者を「いったい何を学ぶ時間?」と当惑させたものだ。今はその「ホームルーム」一期生が、祖父母の世代に達したが。

今は亡き作家・司馬遼太郎さんが、有力寺院で「中央市場の符丁を使うな」と注文したことが、一部のお坊さんの語り草になっている。中央市場の仲買人の符丁が一般人に分かりづらいように、仏教学の専門用語を振りかざして説法をしても、一般の信徒には理解し難い。普通の言葉で説いてこそ、教化の実が挙がることを、司馬さんは言いたかったようだ。

先ごろ、近畿地方のA市で「まちづくり懇談会」が開かれ、難聴者団体の代表も招かれた。開会前に配られた「議題要旨」を読んだが、お役所言葉、つまり司馬さんのいう「中央市場の符丁」が並んでいて、真意が分からない。

手話や要約筆記で助けてくれるボランティアは「私たちにも意味が不明で、議事の内容をどう伝えたらよいか、困っています」と語ったそうだ。会議に出席しなかった市長は後から、活発な議論の後、市の原案が承認された、との報告を受けたらしいが。

B市では、市政協力団体の代表が年間活動の報告書を市長あてに提出した。ごく普通の文体で、活動内容を具体的に記したところ、担当課の職員から「書き直し」を求められた。お役所言葉を使って「適切に対処した」など抽象的な表現にしてほしい、という。

職員にすれば、この団体の活動に批判的な立場の人から意見が出る場合を予想して、報告書はできるだけ抽象的にするのが、職員個人にとっても、担当課全体にとっても「適切な対処」になる、ということではなかろうか。

ここまではお役所言葉を話題にしたが、論文語にも問題点があるようだ。神戸大学名誉教授で精神医学が専門の中井久夫さんは、やはり三年前に、岩波書店の『図書』誌に「センテンスを終える難しさ」というエッセーを寄稿した。

内容は多岐にわたっているが、論文の表記では「のである」「なのである」などで結ばれる語尾が多いことを指摘していた。それに気付いた中井さんは、自分の書いたものから「のである」を削ってみたが、それによって論旨が損なわれることはほとんどなかった、と記している。

こうした決まり語尾は、ほかにも「のだろう」「ではないか」などたくさんあって、それが外国人留学生の日本語理解を妨げているそうだ。

気の付かぬところで、仲間うちの決まり言葉に寄り掛かっていることが多いのではないか。仏教界も、司馬さんの言葉に学び、より「適切な」法話表現を心掛けてほしい。