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道教に傾倒し『老子』は嫌う

2009年2月26日付 中外日報(社説)

北魏太武帝の太平真君七年(四四六)に発動された中国史上最初の廃仏、すなわち王朝による仏教弾圧事件。その仕掛け人は、宰相の崔浩と当時の道教界の大立者の寇謙之の二人であった。

「浩は謙之の道を奉じ、尤も仏を信ぜず。帝と言(かた)るに、数(しばし)ば非毀(誹謗)を加え、常に謂わく、虚誕にして世の費害を為す(でたらめで世の中に無駄な損害を与えている)と。帝は其の弁博(口達者)なるを以て、頗る之を信ず」

『魏書』釈老志にこのようにあり、その結果、「諸州に詔して沙門を坑(穴埋め)し、諸々の仏像を毀(こぼ)つ」(『魏書』太武帝本紀)という事態を招くこととなったのである。

ところで『魏書』の崔浩伝に、崔浩は大変な『老子』嫌いであったということが伝えられている。訓読のままに示すならば、次のごとくである。

――性、老荘の書を好まず。読んで数十行を過ぎざる毎に輒(すなわ)ち之を棄てて曰わく、「此れは矯誣(きょうぶ)の説にして人情に近からず、必ず老子の作る所には非ず。老耼(ろうたん)は礼に習い、仲尼(ちゅうじ)の師とする所なれば、豈(あ)に敗法の文書を設けて以て先王の教えを乱さんや。袁生の所謂(いわゆ)る家人の筐篋(きょうきょう)中の物にして、王庭に揚ぐ可からざるなり」。

「矯誣」とは、いんちきというほどの意味。老耼は老子、仲尼は孔子。孔子が老子のもとを訪れて礼についての教えを請うたことは、「孔子問礼」と呼ばれて『史記』老子列伝や『礼記』曽子問篇に伝えられている。

そのように礼のエキスパートであったはずの老子が、社会規範を破壊するような書物を著わし、孔子の主唱にかかる儒教が尊敬してやまぬ「先王」、すなわち古代の聖王の教えを乱すようなことをするであろうかというのである。

それというのも、老耼の著書とされる『老子』には、例えばその三十八章に「道を失いて而(しか)る後に徳あり、徳を失いて而る後に仁あり、仁を失いて而る後に義あり、義を失いて而る後に礼あり。夫れ礼なる者は忠信の薄きにして乱の首(はじめ)なり」とあるように、儒教の教えを揶揄するような言葉が随所に語られているからである。

また、袁生とは前漢の轅固生(えんこせい)。『史記』や『漢書』の儒林伝に次の話がある。

漢の景帝の母親の竇(とう)太后は大の『老子』好きであった。『詩経』の学者であった博士の轅固生が御殿に呼ばれ、『老子』について下問を受けた時、「此れは是れ家人の書なり」とすげなく答えた。「家人」とは下働きの男や女のこと。「家人の書」である『老子』など読むに値しないというのである。

太后は、「お前たちが読んでいる儒教の書物こそ七面倒くさい三百代言の言い草じゃ」と激怒し、轅固生はいのししの檻の中に入れられた。そもそも竇太后は高祖の皇后の呂(りょ)太后の侍女として宮中に入った女性であったため、「家人」という言葉を聞いて怒りの気持が一層増幅されたのであったという。

崔浩も、「家人の筐篋中の物」すなわち下僕の書箱に蓄えられるような書物にすぎない『老子』、それはとても朝廷で宣揚する価値のない代物だと考えたのだが、この話、いささか理解に苦しむところがある。何となれば、崔浩が傾倒した道教では老子が始祖として崇められ、その著書とされる『老子』がとても尊重されたからである。

例えば二世紀末の天師道の道教教団においては、『老子』五千文の学習が信者たちに課せられたと伝えられる。二十世紀の初頭、イギリスのスタインによって敦煌の莫高窟から発見された古写本である『老子想爾(そうじ)注』、それは『老子』の注釈として文体も内容も極めて特異なものであるが、それこそが天師道教団で用いられた『老子』のテキストにほかならないとの説も行なわれている。

そうであるにもかかわらず、道教に入れ込んだ崔浩がどうして『老子』を毛嫌いしたのだろうか。筆者はいまだに納得のゆく解答を得ることができないのだ。