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苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
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未曾有の経済危機と宗教団体の社会貢献

2009年2月21日付 中外日報(社説)

一流企業といわれてきた会社でも、派遣社員の解雇、さらには正規社員の解雇が相次いでいることが、報道されている。派遣社員の中にはいきなり解雇され、路頭に迷う人も増えている。昨年末にはこうした人々を対象に、いわゆる年越し派遣村が日比谷公園に設けられた。

このような社会情勢が背景になっているのだろう。本欄でもすでに触れたように、宗教施設がなぜこうした人々に救いの手を差し伸べないのかといった趣旨の投書が新聞紙上で複数見られた。日々の暮らしにさえ困っているような人に手を差し伸べてこそ、宗教の社会的役割が果たせるのではないか、というような意見は、ある意味で当然と思われる。

むろん、そうした地道な活動をしている宗教者は少なからず存在し、本願寺札幌別院の「さっぽろ駆け込み寺」のような取り組みも本紙で報じられている。だが、教団あるいは宗派としての組織的取り組みとなると、社会の中での印象は薄い。救世軍による年末の社会鍋などは恒例のこととなっているので、一般の人の間でも多少は認知されているようであるが……。

ヨーロッパには、例えば、ジーザス・アーミーのような、路上生活者に救いの手を差し伸べる組織的な仕組みを作っている宗教団体がある。それに比べると、現代の日本の宗教団体には、やはり貧者を一時的にでも救済するという発想が乏しい、と言わざるを得ないのだろうか。豊かな(豊かだった)社会の中の宗教の限界が示されているのかもしれない。

ただ、仕事を失い、突然に路上生活者になってしまったような人がいたとき、お寺や神社、あるいは教会がそうした人たちに、一時的な住居をどんどん提供できるかというと、現実には難しい問題がある。

日比谷公園の派遣村に関し、自ら実態を調べたわけでもないのに、「本当にまじめに働こうとしている人たちが集まっているのかという気もした」と述べた坂本哲志総務大臣政務官などはあまりにも軽率、論外で、批判を浴びて当然だ。しかし、こうして集まった人たちをすべて援助の対象とすべきかどうかは、当事者の立場に立てば、そう簡単な話でない。

さらに、七堂伽藍を備え数々の文化財を擁する大寺院では、たとえ何とかしたいと考える人がいても、広大な境内にそれにふさわしい施設は見つけにくい。文化財を抱えるというのも、ここではかえって制約となり、セキュリティーの問題がたちまち発生する。

ただし、このような社会的状況にあるとき、宗教団体はどのような貢献ができるかという発想を持つことは、必然的に求められる。可能なものがあれば、それを実行に移すという姿勢がうかがえるかどうかで、人々の宗教団体を見る目も違ってくる。残念ながら、この点で多くの人は不充分と感じているのであり、それゆえ、あのような投書が新聞紙上に掲載されたのだろうと推測される。

宗教の使命は、心の救いであって、こうした社会的な問題にかかわることではないとする意見もある。実際そのような趣旨の投書も見られた。職を失い住居さえも失ったような人々に、たとえ食糧とか仮住まいの場所を提供できないとしても、心の不安や悩みを和らげるための、さまざまな活動をやっているというのであれば、確かにそれを感謝する人もいるだろう。

だが、今回のような事態に対して、宗教団体、あるいは宗教家は何もしない、何も考えない――そのように社会の人々の目に映ってしまっているとすれば、それこそ宗教団体にとっては由々しき事態である。"宗教の社会貢献"といわれるようなことは、こうした地道で差し迫った問題に対し、何か考える姿勢を持つことから始まると思われるのである。