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「無欲」という徳

2009年2月3日付 中外日報(社説)

「馬鹿」とはいかなることか。哲学者カントによると「馬鹿」とは「価値のより小さいもののために、より大きな価値を犠牲にすること」だという。さすがカント先生、言い得て妙である。

ところで、価値の大小を弁(わきま)えた上で、「価値のより小さいもののために、より大きな価値を犠牲にする」人はいないから、「馬鹿」とは要するに価値の大小の見極めができないことである。とはいえ価値の大小を見抜くことは簡単ではない。特に通念に逆らうことは甚だ困難だ。

例えば「太平洋戦争」だが、わが国では皆が戦意高揚に熱中して、冷静な少数者の声はかき消され、無謀な戦争に突入したのだが、国家の指導者たちが掲げて見せた戦争の目的を実現するどころか、反対に敗北して大損害を被ってしまった。

もっとも、結果として全く予期しなかった農地改革や男女同権が実現し、平和憲法が制定され、敗戦後の経済的繁栄の基礎が築かれたのだが、これは戦争目的とはまるで無関係な「結果」だから、客観的に見てもあの戦争がやはり「愚かな」行為だったことは争えない。

さて、もし「馬鹿」が右のように定義されるなら、「利口」とは「小さなコストで大きな利益を獲得すること」であろう。これは誰でもが求めるところだが、この意味で「利口」に振る舞うこともなかなか容易ではない。

地味な努力で成果を挙げること、換言すればコスト相応の利益を得ることは、実際にまれではないし、最も好ましいことである。しかし、一獲千金は危険な賭けだ。前世紀末の土地バブルがそのよい例である。多くの企業が土地の値上げと転売に、銀行は貸し出し競争に、狂奔した。中には高値で売り抜けた「利口者」もいたらしいが、結果は誰でも知っている大損と不況である。大方は「馬鹿を見た」わけだ。

米国のサブプライムローンの破綻に始まった世界的不況については言うまでもない。これと無関係ではないが、ある男が、原油の値上がりが始まったころ――当時は一バレル三十ドル台だった――、投機資金を集めている機関投資家から、出資するようかなりしつこく誘われた。

当時、原油の値上がりは明らかだったけれども、その男は投機でもうけるなどということを潔しとしない質(たち)なので、応じないでいたが、間もなく原油は暴騰し、正直なところ損をしたような気もしないではなかったという。しかしやはり投機に手を出す気にはなれず見送ったところ、一時は百四十ドル台にまで値が上がった原油価格は、世界的不況のあおりを受けて急落した。

男は、もし誘いに乗って買い進んでいたら大損しかねなかったと胸をなで下ろしたという。やはり投機などには手を出さない方がよいわけだ。

それにしても原油が値上がりしている時には、価格は市場に任せるなどと称して増産の要請に応じなかった産油国が、値下がりした途端に減産に次ぐ減産に踏み切ったのにはあきれてしまうが、現代の商売とはそういうものなのであろう。

いずれにせよ、損をするのも得をするのも、単に時の運にすぎないとしたら、結局のところ、世に「利口」と「馬鹿」がいるわけではないともいえる。

ところで、「無欲」という徳があって、これはみすみす利益を逸する「馬鹿」と見られがちだが、長い目で見れば案外損をしていない。「無欲」は元来損得を度外視するものだが、現在のように変転が激しく将来の見通しが困難な時代には、人間の生き方としても安定感をもたらすものである。

乱世を生きた多くの宗祖が説いてきた「無欲」は、このような混迷の時代にあっては、生きる智慧としても現実的な「徳」なのかもしれない。