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政治の時代と宗教

2009年1月8日付 中外日報(社説)

軍事、政治、経済、文化といえば社会の――通常は国家の――営為であり、これらは同時的に成り立っている機能である。しかし場合によってはその一つが優越することがある。例えば国際関係を見ると二十世紀前半は軍事が、後半は経済が前面に出ていた。十九世紀中葉、アジアの大部分が植民地化ないし半植民地化されていた状況で開国を迫られた日本では、上記四つの面はかなりバランスを欠いた状態で発展した。

嘉永六年(一八五三)、ペリーが浦賀に入港、文久三年(一八六三)には薩英戦争、翌年には四ヵ国連合艦隊が下関を砲撃する事件があって、尊皇攘夷の方針は開国に変わり、新政府成立の後、明治六年(一八七三)には徴兵令が定められている。まずは軍事優先であった。

実際、明治維新から同十年(一八七七)の西南の役までわずか九年の間に新政府は軍隊を保有するに至り、農民あがりの兵隊なにするものぞと高をくくっていた薩摩の武士軍団を破ったのである。日清戦争、日露戦争に勝利した日本は「強国」の仲間入りをしたと舞い上がり、満州国建国など軍部の独走を許すようになった。日中戦争を経て太平洋戦争で敗北し、軍国主義が終焉した歴史は周知の通りである。

敗戦後の日本は平和国家としてよみがえり、当初の理念は文化国家の建設であったが、実際には産業国家となった。産業は先進国一般と歩調を合わせて工業から情報産業へと移行した。

この間、金融市場の比重が増大しているが、これらは戦後の日本における経済偏重を意味している。もっぱら経済成長が追求されたのである。しかし一九六○年代以降の高度成長期には「ジャパン・アズ・ナンバーワン」などともてはやされて繁栄を誇ったものの、八○年代の土地バブルは九○年代初めにはじけ、長い不景気が続いた。

以来、企業の業績が上がったことがあっても、勤労者所得は増えず、好景気の実感がないままで、米国のサブプライムローン破綻に始まる現在の世界的不況を迎えることになる。

これらの経済危機はさまざまに論じられているが、投機が大きくかかわっていることは間違いない。グローバル化されたアメリカ経済の事情も重なっている。アメリカには投資や金融の形で世界中からカネが集まっていた。企業は金融機関からカネを調達し、それを消費者に貸してクレジットやローンの形でモノを買わせていたのである。その商品の主なものが住宅であり自動車であった。一般家庭も可処分所得を上回る支出があるのに投資で利潤を得ようとしていたという。

アメリカは借金でモノを買い、それが世界の景気を牽引していたわけである。だから住宅ローンの破綻が金詰まりを生むと、これがたちまち世界的な金融危機を招いてしまった。

資本主義的な自由市場の原理は終焉したように見える。ここで指摘したいのは、経済情勢の分析ではなく、次のことである。

かつての日本のように、アメリカでも金融機関はじめ大企業救済のために莫大な公的資金が注入されることになる。とすれば、従来の自由放任主義とは違って、国家が経済に介入し、市場を監視・管理するようになるのはやむを得ない。「新自由主義」的な「小さな国家」の時代は終わり、「大きな国家」どころか、世界の主要国が連携して経済をコントロールする時代が来る。実際、環境保護政策つまり炭酸ガス排出をめぐる国際的協定はすでにこの方向を示している。

ということは、経済偏重の時代が終わって、これからは政治が優位に立つ世界になるだろうということだ。すでに次期米国大統領オバマ氏はアメリカ一極主義をやめて国際的協調を重視する政策を公にしている。アメリカはすでに経済から政治の時代へと舵を切り始めたようだ。今後は米日、EU、産油国、さらに新興国群ブリックス(ブラジル、ロシア、インド、中国)相互の間で、またその中の各国の間で、国益をめぐる三つどもえ、四つどもえの政治的駆け引きが繰り広げられるだろう。

ところでわが国が近い将来に備えているかといえば、それがはなはだ心もとない。アメリカの言いなりになっていれば安心という時代ではない。それなのに国際的視野もあり、自立した政治力もあるリーダーが育つどころか、小泉政権以来首相が三人も代わったし、二大政党は政策より政権に関心を集中している。

政治には理念が必要だ。建前にせよ納得できる理念がなければ人はついてこない。そして理念を担うのは文化であり、文化の底には宗教がある。宗教が紛争を激化させている地域があり、だから多くの人はまさかと思うだろうが、実は利潤や権力から自由な、個性的でしかも普遍性のある文化と宗教が育たなければわが国の将来だけではなく、地球の将来も危ない。宗教界の文字通りの「覚悟」が求められているのである。