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関係深めるアジア

2008年11月27日付 中外日報(社説)

時代や地域による例外はあるが、日本仏教の主流はその時々の権力から、多かれ少なかれ庇護を受けてきた。そのことは、伝統仏教という言葉自体にも暗示されているように思われる。むろん、政教分離が厳しくチェックされる現代では、政治権力による庇護と権力への奉仕の関係はあり得ない。だが、歴史的な影響が今も間接的に、あるいは心理的に残っている部分はあるようだ。

伝統仏教がおしなべて対社会的に"受け身"であるという印象を与えているのもそのような事情に起因するのではなかろうか。

ひるがえってみれば、戦後の日本社会も全体として受け身の姿勢が目立ち、それが弊害を及ぼしている、という論調が存在する。あまりにも激しく変動する世界の中で、日本は果たして受け身の姿勢のままでいいのか、との反省が国民の"気分"を形成しているように思われる。

田母神発言にはネット上で賛同する声があるという話で、やはりそうした"気分"の表われの一つかもしれない。ただし、これに関しては、"受け身"の自信喪失に対する何やら非常に内向きな反動のようで、きわめて危ういものを感じざるを得ないのだが。

ところで、かつて「ミスター円」と呼ばれた元大蔵省財務官・榊原英資氏の『間違いだらけの経済政策』(日経プレミアシリーズ)を最近読んだ。経済学の議論の詳細については理解の及ばない部分もあるが、特定の経済理論が、ある時点では非常に有効であっても、時代・環境の変化によって、経済社会の基礎構造が変わると、現実の経済動向との間に乖離が生まれるという指摘は説得力があった。

榊原氏の著書を読んで、もう一つ興味深かったのは、既にアジアの経済は一体化の進路をたどり、それが現在の経済状況の背後で働く重要なモメントになっているという指摘だ。

グローバル化現象といってしまえばそれまでだが、なるほど、と思う。同じ傾向は宗教界にもみられるのではないか、とも感じるのである。

一般のメディアはさほど関心を持たないのであまり報じないし、個別の事例すべてを総合的に把握することもなかなか難しいのだが、仏教界でも国際交流は歴史上かつてないほど活発だ。日本から、"受け身"ではなく積極的にアジアへ向けて働きかけている事例も多い。

小学校や孤児院、保育園など、さまざまな施設に対する支援が日本の仏教僧侶の手によって推進されており、そのほかにも多面的な活動が行なわれているようである。最近開かれた世界仏教徒連盟(WFB)の日本大会をはじめ、アジア諸国からの仏教者の来日もまた頻繁で、海外の仏教者からの問い掛けに真摯な対応を求められるケースもまれではない。

時代の流れを巨視的に見れば、確かにアジアは仏教においても、地域の伝統・個性は保ちつつ、ひそかに一体化しつつあると言ってよいのではないか。そして、こうした動きの中で平和への熱い呼び掛け、人権侵害への抗議など積極的な協力が少しずつ輪を広げて展開されてゆくとすれば、たとえ一つ一つのアピールは弱いように見えても、やがてそれは人類社会の全体を動かす力ともなり得るだろう――そう期待したいのである。

いずれにせよ伝統宗教もまた、住み慣れた国内に目を向けるだけでは、その本来の責任さえ果たせないような状況に直面している。「玉磨かざれば、光無し」という。この状況は、歴史的に身についた消極性を脱して、それぞれの宗教の説く真理を輝き出させる好機ともいえる。

その真理が、諸行無常の教えの通りに日々移り変わる経済や政治、その他に奪い去られるのを傍観することなく、宗教の叡智を現実の中に生かす道を歩むべく努力したいものである。