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死の覚悟と生の義務

2008年11月20日付 中外日報(社説)

がんの末期で誰が見ても終末が近い老人がいた。状態が良くないことは本人にもよく分かっていた。ある時うがいをして、誤って少し飲んでしまった。戦前はよくホウ酸水でうがいをしたもので、老人にもその習慣があったが、ホウ酸水を飲んでしまったと騒ぎだし、体に毒ではないか調べろという。

家の者は、少しぐらい飲んでもどうということはあるまいと思ったが、とにかく百科事典や薬の副作用の本などで調べて、大量に飲むと肝臓に害があるそうですと報告したところ、老人は安心して眠った。家族は寝顔を見ながら、この人はまだ死にたくないのだとつくづく思ったという。

百歳に近いお年寄りがいた。もともと丈夫な人だったが、さすがに衰えがきて、在宅のまま寝たきりになった。痴呆の兆候も現われたが、大学教授であった老人はテレビで時事問題を見るのが好きで、家人に向かって何かよく聞き取れない感想を語り、家人が相づちを打つと満足そうに笑みを浮かべた。

睡眠時に何十秒か呼吸が止まる呼吸異常があり、これは時として健常者にも起こるのだが、それと似た症状が現われ、呼吸停止が数分に及ぶことがあった。家族が気付いてどうしたものか迷っていると目を覚まし、のぞき込んでいる家人の顔を見て、「お、どうした、何を見てるんだ」と問い掛けることもあった。時には呼吸停止の後、目が覚めると何か食べたいなどと言い、食事を出すと結構しっかり食べるのであった。

日ごろから生活は規律正しく、食事もきちんと取る人だった。終わりが近いころは啖がのどに絡まり、ひどく咳き込みながら懸命に食ベた。呼吸が止まってもそれをはね返して目覚めることといい、咳に苦しみながらの食事といい、それはあくまで生きようとする意志、むしろ生への執着とすら見えたという。

ある時、呼吸停止がいつもよりひどく、娘が付ききりでいたところ、老人は娘の疲労した様子に気付いたのか、「お前も疲れたろう、少し休んでこい」と言った。娘は実際疲れ切っていたので、無呼吸はいつものことだと思い、しばらく眠って戻ったところ、老人は息絶えていた。

もう長くはないと分かっていても、人はあくまで生きようとするものだ。それが正常で、だから自殺は異常である。生への意志が時として第三者には生への妄執に見える場合もあるだろうが、しかし生きている限りはあくまで生きることを大切にするものだ、とはっきり心得ている人もいるのである。

上に述べた二人の老人はクリスチャンで、若いころから強固な倫理的意志を持ち、義務感の強い人であった。神から与えられた生命を粗末にしてはならないという気持があったであろう。このような人の場合、生きている以上は最後まで生きる義務があると感じているものであって、それは単なる生への執着とは似ていても同じではない。

そういう人は、もはや己の寿命もこれまでと観念して生きる義務感から解放された時、安心して死んでゆくのであろう。そこには何か尊いものがある。

人間誰でも必ず死ぬ。だから自分もいつかは死ぬ、という覚悟は持たねばならない。しかし、それと生命を粗末にするのとはおよそ別のことである。自殺者の増加を聞くと、いずれは来る死への覚悟とは異なる、生命そのものの軽視が社会をむしばんでいることを深刻に考えざるを得ない。