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田母神発言を憂う

2008年11月11日付 中外日報(社説)

「我が国は侵略国家だったというのはぬれぎぬ」と主張する論文を掲載して更迭された(防衛省は十一月三日付で定年退職と発表)航空自衛隊の田母神(たもがみ)俊雄・前航空幕僚長が三日、都内で記者会見を開いた。

新聞等の報道によれば、田母神氏は「解任は断腸の思い」としつつ、政府見解を否定する論文内容について「誤っているとは思わない。政府見解は検証されるべきだ」と主張した。田母神氏は論文中で「我が国は蒋介石により日中戦争に引きずりこまれた被害者だ」と主張し、旧満州、朝鮮半島について日本の植民地支配も正当化しているが、「これくらいのことを言えないのでは民主主義国家といえない」と話したという。

アジア・太平洋戦争が終結してから、すでに六十三年の歳月が過ぎ去った。日中戦争から太平洋戦争へと拡大する過程で、わが国は八紘一宇の理想を掲げて大東亜共栄圏を確立するための聖戦である、と主張した。だが、中国その他のアジア諸国では、日本軍の進攻は明白な侵略戦争であると認識されている。

田母神氏の一件は、少なくとも一部で今もこうした認識の断絶があることを示したわけである。

日中戦争の初期の段階で蒋介石の国民政府軍が攻勢を示したことはあった。だが、それをもって、わが国が被害者だったというのは極めて皮相な見解であるというしかないだろう。

政府は平成七年(一九九五)にアジア諸国に対して謝罪する村山首相談話を閣議決定した。麻生太郎首相もまた村山談話を継承する考えを表明した。田母神論文は、これらを否認するものである。その意味するところを田母神氏が本当に深く意識していたとしたら重大な問題だ。

「舌三寸に胸三寸」ということわざがある。言葉と心とは慎まねばならない例えだ。また、「三寸の囀(さえず)りに五尺の身を破る」とは、ちょっとした失言が身の破滅につながることをいう。「口は是れ禍の門、舌は是れ身を斬るの刀なり」(馮道『舌詩』)も言葉を慎めという詩句として知られる。

「舌がすべる」というのは言葉が勢いあまって言わなくてもよいことを言い過ぎてしまうことである。「舌は禍根」は、禍の多くは言葉から起こるのを戒めている。

舌禍ではなくて筆禍もある。いわゆる「筆がすべる」。発表した文章が時の政府や社会の忌諱に触れて制裁を受けたり災難を被ることをいう。もちろん舌禍も筆禍もその言葉や文言が正当な場合もあれば不当なものもあろう。ガリレオ・ガリレイ(一五六四-一六四二)がコペルニクス(一四七三-一五四三)の地動説を認めたため、『聖書』の天動説に違反するとされて宗教裁判にかけられて断罪されたことは有名だ。

近代明治期以降、戦前までは舌禍や筆禍は学者など文化人に多かった。ところが、戦後は、政治家が要職に就いた時の発言が不適切なために失脚した例が極めて多いのが目立つ。

これは、政治権力による言論弾圧が少なくとも表面的にはなくなった戦後の傾向といえるかもしれない。だが、それにしても、いやしくも国政にあずかる政治家や高級官僚である。その職責に対する自覚の欠如と短絡的な思考が現われているようで、憂慮せざるを得ない。

途方もなく膨大な殺人としての戦争は人間の最大の罪業であるという真摯な宗教的覚醒が、昨今、希薄化してきているのではなかろうか。戦争という大義を名目とする殺人行為を全面的に無条件で認めない非戦に徹すべきである。そして、過去の戦争を二度と再び繰り返さないという懺悔が、人間存在に対して宗教的にいかなる意趣を持つのかを継続的に反省してゆかなければならない。

釈尊が軍隊の行進を見学するだけで不殺生戒に触れると、厳しく戒めているのを想起すべきであろう。全世界の国々が足並みをそろえて核兵器全廃、軍備縮小に踏み切る機運に向かう時がくるのを、ひたすら念願してやまない。