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光明皇后の窮民救済

2008年11月6日付 中外日報(社説)

十月二十三日に、平城京の東側に当たる奈良市高畑町・奈良教育大学の構内で新薬師寺の金堂跡とみられる遺構が発見された、と同大学が発表した。

基壇の規模は東西約五四メートル、南北約二七メートルと推定されて、平城京大極殿に匹敵するといわれる。ここは現在の新薬師寺のほぼ一五〇メートル西に近いところに位置する。

「東大寺山堺四至図」が、正倉院宝物として伝えられる。それによると、東大寺の南方に「新薬師寺堂」が描かれている。また『東大寺要録』によれば、新薬師寺には堂内に四・五メートルの七仏薬師像七躯が安置されてあったことが分かる。

同じく『東大寺要録』には光明皇后(七〇一-七六〇)が聖武天皇の病気平癒を祈願して新薬師寺を建立して七仏薬師像を本尊としたのは、天平十九年(七四七)であったことが記されている。

皇后が多くの病人たちのために薬を投与する施薬院を設けたり、窮民を救済するために悲田院を設けた史実は、感動的なエピソードとして語り伝えられている。鎌倉末期~南北朝期の虎関師錬(一二七八-一三四六)の著作『元亨釈書』その他に言及がある。江戸前・中期の運敞(一六一四-一六九三)の随想『寂照堂谷響集』第四所収の「光明皇后」に伝承をまとめて紹介しているので左に記してみたい。

「ある時、浴室を建てて人々を洗い流せば、その功(いさお)はいい尽くしがたい」というお告げが皇后にあった。

そこで浴室を作って貴賤の別なく入浴させた。皇后は千人の垢を除くことにした。すでに九百九十九人は終わることができた。最後の一人は皮膚病の患者で、臭気を部屋中に放っていた。皇后は耐え忍んで背中を摩(な)でてやった。

病人は、良医から言われたのだが人に膿を口で吸ってもらえば次第に快癒する、と伝えた。それを聞いた世の人々で深く悲しまない者はいなかった。

ところが、皇后は瘡(かさ)を吸って膿を吐き出してから、その者に向かって、この事は慎んで他の人に言わないように、と言った。すると、病人は突然、大光明を放って言った。あなたは阿仏(あしゅくぶつ)の垢を除いたのです、と。

皇后は、驚いて見た。その姿の妙相は端厳にして光輝が漂っていた。と、たちまちに見えなくなってしまった。皇后は驚き喜ぶこと限りがなかった。そして、その地に伽藍を建立して阿寺と称した。

皇后は天平宝字四年(七六〇)六月七日に崩じた。年六十歳。かつて能筆の者を選んで大蔵経を書与した。また皇后は書をよくして自らも写経に努めた。今、世に流布しているものがそれである。

周知のように光明皇后は聖武天皇の皇妃で藤原安宿媛(あすかべひめ)または光明子ともいう。藤原不比等の三女。孝謙天皇の母君。仏教の篤信者で社会福祉活動の先駆的存在としても注目されている。

鎌倉中・後期の真言律宗の忍性(一二一七-一三〇三)は、永仁二年(一二九四)に摂津四天王寺に施薬・悲田二院を復興して病者救済活動をした。その師叡尊(一二〇一-一二九〇)も、つとに奈良北山宿で病者救済活動に努めた仏者である。

いずれにせよ、光明皇后のエピソードは、仏教社会活動の原点と見てよいだろう。慈悲の極致を語っているものといわなければならない。

釈尊は、出家修行者はアウト・カーストの最下層に身を置くように心掛けよと戒めている。これは、今日の格差問題をはるかに超えたところの人間存在の根源を問うているように思われる。

初期仏教教団では教団-僧伽(サンガ)-に入団した者は、身分、家柄、尊卑、社会的階層といった世俗的なあらゆる区別は解消される。もし区別があるとすれば出家得度して受戒後の安居(あんご)を過ぎた年数によるだけである。だが、これは身分的な差別には当たらない。

光明皇后が建立した新薬師寺の遺跡がこのたび確認された。そして皇后の歴史的な像が急浮上した。これを契機に仏教を、その社会的な原点にまでさかのぼって顧みるのは極めて意義あることではなかろうか。