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近代化の中の宗教

2008年11月1日付 中外日報(社説)

「近代化」とはいかなることだろうか。宗教も近代化したのだろうか。

例えば自然科学が技術に応用され資本主義的経済体制に組み込まれたという事態を考えると、これは近代(現代を含めて近代という)をつくり上げた主要な動力であって、何かをモデルとして近代化したわけではない。従ってこの場合、近代化とは近代を創造したという意味である。

その中の一分野である物理学をとれば、ガリレオやニュートン、ハイゼンベルクやアインシュタインという名が示すように、近代化とは、現代に至るまで物理学自身が絶えず進歩発展を遂げたという意味である。その歴史の中には湯川秀樹、また本年度ノーベル賞を受賞した南部陽一郎、小林誠、益川敏英という日本人の名も見える。

「日本の近代化」という時はいささか意味が異なる。徳川幕府中心の封建制度をつくり上げて鎖国に入った日本は、西洋に接して近代化したのである。明治維新が近代化の始まりであったとすれば、それは政治、経済、法制、教育、軍事など国家的営為の全面にわたって欧米を模範とした変革であった。

ただし、天皇を中心とした中央集権体制は西欧近代の絶対主義的王政をモデルとしたとはいえ、鎌倉幕府成立以前の天皇の直接支配に「王政復古」したという意味では、やはり西欧近代、特に近代アメリカとは異なるものである。日本の近代は敗戦後に完成したといえるなら、この場合「近代化」とは開発途上国が西欧化しつつ先進国に変貌するという意味になる。

いずれにしても以上の場合、近代は、古代とはおよそ様変わりしてしまったので、例えばアリストテレスが現代に来たとすれば、学問がすっかり変わっているのに驚くだろう――彼の「形相」(エイドス)論が現代生物学の遺伝的「プログラム」論に受け継がれているといって喜ぶかもしれないが。

では、宗教はどうだろうか。キリスト教が東西ヨーロッパに広まり、ギリシャ正教文化圏とローマ・カトリック文化圏が成立した後、プロテスタントの宗教改革は、直接神の前に立つ「個人」を生み出したという意味で、個人主義的近代化の一翼を担った。ただし、キリスト教は自由、平等、博愛の理念や契約思想などを通して近代社会の成立に寄与したのだが、近代社会を創造したとまでは言い難い。

またキリスト教は必ずしも絶えず進歩発展してきたというわけでもない。例えばパウロやヨハネなど原始教団の使徒が現代のキリスト教会を見たら、「信仰」という点では違和感を感じないことであろう。

仏教の歴史はさらに長い。いわゆる上座部仏教成立の後、大乗仏教が現われ、東アジアに伝わって諸宗派を生み出し、日本にも伝来したが、鎌倉仏教において「信心」を中心に置く浄土教が独立した宗派となり、広く影響力を及ぼした点ではヨーロッパの宗教改革に似たところがあるともいえよう。しかし、もし釈尊が日本に来られたら、諸宗派が現代でも「悟り」を伝えている点に喜びを感じられることであろう。

ということはキリスト教にせよ仏教にせよ、現代では成立時とまるで別物になった、というわけではないのである。

これは二千年以上にわたって「正しい教え」が伝えられてきたということで、権威と伝統を守り続けたことには意義があるのだ。

結局、宗教は上述のどの意味でも近代化してはいない。そして、現代人が宗教に現代的ならざるものを感じているのも事実である。それはどういうことかというと、宗教が現代人には不可解ないし受容困難な古代的伝統的言語を少なくとも一部でそのまま語っていること、また宗教の現代的意味がよく分からなくなっている一面がある、ということである。

だからといって宗教が現代の需要に応じて自らの本質を曲げることになったら元も子もない。ここに宗教の「近代化」の難しさがあるのだが、それでも現代人は宗教を必要としている。宗教が自らの本質を正しくとらえてそれを現代に通用する言葉で語り直す工夫は、世俗化に対抗するためにもどうしても必要である。その必要性はつとに感じられてもいるのだが、努力はまだまだ不充分に思われる。