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障害者自立支援法根本的な見直しを

2008年10月23日付 中外日報(社説)

この国にはさまざまな社会福祉の制度があるが、時代状況に合わせて手直しされていくうち、はなはだ複雑で分かりにくいシステムになってしまっている。そして全体として整備はまだまだ不充分である。

そんな中に「障害者自立支援法」という法律がある。かねて、この法律は…と福祉関係者から問題の多いことを聞いてはいたが、「支援」という甘い言葉に引かれ、ついついそれほどでもなかろうと思っていた。しかし、それは全くもって不明の致すところであった。

実は、この法律は「支援」ではなく「自立」の方に力点がかかっており、いわゆる小泉改革に共通する規制緩和という美名に隠れた、「自立=勝手にしろ」という思想がここにも強烈に作用していたのである。ここで「支援」とは要するに「これまでのようにはお金は出さないから、それぞれ自由に」ということ。弱者を狙い撃ちにした財政削減策だったのである。

ここで思い出す一つのエピソードがある。仏教にはあつい道心をもって門をたたく人がいる一方、社会生活のさまざまな重圧に打ちひしがれて救いを求めてくる人も多い。そんな一人の若者が社会不適合を理由に、つてを頼ってある寺に転がり込んだのであった。

相談を受けた住職が彼を受け入れ、早朝から厳しい修行をさせ、「しっかりしろ。自覚を持て」と絶えず励まし続けたという。その指導は間違ってはいなかったのだろうが、その結果、若者はますますノイローゼが高じ衰弱も激しくなって、心理的にも追い込まれてしまったのである。

見かねた門前のご婦人が、「あなた、そんなに頑張らなくてもいいのよ」と声をかけ、寺には無断で某教派神道系教会に入れてしまった。すると、その若者は滂沱と涙を流し、何日も眠り続け、そして晴れ晴れと蘇生したという。

むろん、仏教の修行より教派神道の方がいい、などと言いたいのではない。要は、人にはそれぞれ適性がある、という当たり前の話である。それなのに、人は往々にして自らの信ずるところ、自らの立場を他人に強要してしまう。それは駄目なのだ、ということなのである。

社会福祉の方法論にも、「ストレングス視点」だの「エンパワメント」等という先進的な理論があるという。要介護者を励まし元気づけ、少しでも自立の方向に持っていこうとすることらしいが、これも絶対ではあるまい。現に理論を聞きかじって無理強いした失敗例も多いと聞く。先に見たエピソードと同じことなのである。

世に救いを求めている人は多い。というより、人にはみな救いが必要なのである。『法華経』の譬喩品を持ち出すまでもなく、われわれはみな火宅にあるのだから。

中には自立できない、他人の助けが必要な人も多い。そんな人には自立を強要しなくてもいいのである。それよりも周囲の人々が一片の慈しみの心を起こし、ほんの少し手助けをしてあげればいいのである。それによって家族や地域の連帯も生まれ、貧しいけれどもゆとりのある豊かな環境が出来上がるのである。

かつて日本が貧しく、福祉政策どころではない時代も長かった。そしてそんな時代なればこそ不幸な出来事も多かった。しかし地域によっては、周囲が身障者を大切にして守ってきた例も少なからず見られた。

今、格差は広がって豊かさは一部の人間が独占し、多くの人々が定職にも就けずに巷を徘徊している。老人や要介護者は不安の中に置き去りにされ、そしてそんな人々を介護する福祉関係者も低賃金と重労働にあえいでいる。

何かがおかしい。高福祉が望ましいし、日本はそれができぬ国でもなかろうに、と思う。だからそれに向かって声を上げ続けなければならないし、同時にわれわれ自らできるささやかなこともあるだろう。それはこころの持ち方であり、現実には積極的に手を差し伸べることである。

そして、取りあえず、この国をこれ以上悪くしないためにも、「後期高齢者医療制度」はもちろんのこと、「障害者自立支援法」についても根本的な見直しを迫る必要があると思われる。