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老齢化する社会と寺院"再生"への道

2008年10月21日付 中外日報(社説)

社会の老齢化が加速し続けている。この現象は山村や漁村の過疎地において顕著であり、今や村落の存続さえ危ぶまれる事態となっている。もはやこの方向を逆流させることのできるいかなる方途も見いだせないであろう。

また、都市への通勤に便利な郊外の小都市においても、旧来の村落を埋没せしめるかのように、新しい新興団地がこれを取り巻いている。一見すると地方の若返りとも見えるこれらの地方においても、巨大資本の百貨店やスーパーマーケットの進出によって、駅前通りはいずこも「シャッター通り」と化している。

これらの現象は社会の構造的変化のうねりであって、それに逆行することができないのは当然である。この急速な社会変化は、そこに住む人間に適応能力を否応なしに要求してくるだけだ。残念ながらそういう適応能力は人間の加齢とともに衰えるのであるから、社会生活のとめどなき質的変化と、そこに住む人間の老齢化が、かつてない不適合を生みだしたのは事実である。

そういう社会全体の歪みの中に、伝統仏教が置かれているわけである。伝統仏教の体質的老化もまた、このような社会構造の空前の変化に対して適応能力を欠くのはむしろ自然であり、それでもなお健全を装うのは自己欺瞞ではないかとさえ見える。

今や伝統仏教をこのまま若返らせようとして多少の工夫を凝らしてみても、やがてはこの潮流にのみ込まれてしまうこと必然である。それが避けられない現実であるなら、仏教寺院はむしろ自ら"死"を覚悟すべきではないだろうか。

仏教の説く無常の教えによれば、人間の老死は不可避の事実であり、伝統教団という巨体の老化が、やがて死を迎えるのも極めて自然の道理である。しかも同じ無常原理は、梅は寒苦に耐えて咲くというごとく、死を新たな生に転換するであろう。

キリスト教の信仰が十字架上のイエスの死∥復活を基本とするように、浄土門には往還の二相があり、聖道門にも大死一番、絶後蘇生の覚悟がある。ただ死を恐れることは、迷妄にすぎない。

言辞を弄するものではない。「死ぬときは死ぬがよろしく」という古人の覚悟を仏教教団の命数に置き換えて、いっそ覚悟を決めてはどうかと言いたいのである。ただし、筆者の思いをあえて言うなら、心は仏教教団の滅亡にではなく、仏教そのものの「全く新たな生」への期待にあるのだ。

具体的に老齢化した寺院の現状を見るならば、過疎地においては、老人の死とともに檀家が一軒なくなるとさえいう現実がある。そのままではいつか、この寺はやがて檀家が一軒もない寺になるであろう。それを予感して嫌がる若い世代に、なお後継者であることを強要することは、死馬を鞭打つに等しい。

筆者の友人である某和尚は、島根県の過疎地で立派な禅宗寺院の住職を五十年務めてきた。彼は今この寺の重要文化財である古い庭園に加えて、さらに未来への遺産として現代筆頭の庭園家による新しい庭園を造園中だという。

さぞ次世代住職も喜ぶであろうと筆者が褒めると、「いや、この寺はやがて公的な文化財となるであろう。自分はすでにこの寺を過疎地の檀那寺として存続させる気はない。だから布教の拠点として、浜田市中のアパートに別院を新設した。そこに長男を住職として住まわせ、布教活動させているところだ」と彼は胸を張った。

筆者はこれを聞いて、新しい仏教再生の端緒を知る思いがしたのである。