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物理学賞受賞の道を開いた学者

2008年10月16日付 中外日報(社説)

「ノーベル物理学賞に続いて化学賞」と日本の学者たちの快挙を伝える新聞各紙の中で「紙と鉛筆、一挙に花開く」と題した朝日新聞の社説に心ひかれた。戦前、戦中、戦後を通じて、大きな実験装置を持たない日本の素粒子研究者たちが、紙と鉛筆と、思考のひらめきだけで世界の原子物理学界をリードしてきた足跡を、端的に表現していたからだ。

各紙の報道は湯川秀樹、朝永振一郎両氏以来の日本の原子物理学の流れが、今回の南部陽一郎、小林誠、益川敏英三氏の物理学賞受賞に結びついたことを伝えている。正しい見方であるが、湯川氏や朝永氏以前にも、目立たぬながら先駆的な研究者がいたことを記しておきたい。

ところで、物質の成り立ちの根源を探る素粒子研究が、超ミクロの研究であるのに対して、天文学は宇宙を対象とした超マクロの学問である。古代から中世にかけての天文学を支配したのは、地球(大地)の周りを太陽や月が回るとする天動説であった。

一五四三年、ポーランドの修道士ニコラス・コペルニクスが地動説を提唱したことで、全く新しい時代を迎えた。

「コペルニクス的転回」と呼ばれるこの新理論が生まれたのは、コペルニクスだけの功績ではない。それまでに天動説天文学者が、詳細な観測記録を積み重ねていたからである。

素粒子研究で湯川氏の唱えた中間子論をコペルニクス的業績と見る時、その先駆的役割を果たした学者の一人に、広島県竹原市出身の三村剛昂(よしたか)氏がいた。東大に学び、昭和四年に広島文理科大学(現在の広島大学)が開設されると、少壮教官として故郷に錦を飾った。

細川藤右衛門氏ら新進の数学者とともに理論物理学研究所を創設、数学によって原子の構造を解明しようとした。三村、細川両氏らが提唱した「波動幾何学」によると、原子の活動が一定の法則によって掌握できるというので、原子核構造の解明を目指す世界の学界から注目された。

だがこの理論は、考え方はユニークでも、実験の結果に合致しないため、学界の主流となりえなかった。あたかも天文学で地動説が権威を失ったようなものである。

しかし「理論的な研究で世界の注目を集める」という雰囲気が湯川、朝永氏や坂田昌一氏ら、後進の学者に刺激を与え「紙と鉛筆」学の伝統を築くきっかけとなったことは疑いない。三村氏が耕した土壌の上に昭和二十四年(一九四九)、湯川氏のノーベル賞が大輪の花を開いた。

昭和二十年八月六日の原爆で、広島の理論物理学研究所は全焼、細川氏は死去した。爆心から一・五キロの場所にいて、三村氏は奇跡的に軽傷だった。被災の直前に三村氏は、学生たちに「今に広島で、一つの都市を焼き尽くすという大きな実験が行なわれる。君たちは科学を学ぶ者として、その実験の経過を克明に観察しておくことだ」と語っていた。

三村氏のいう「実験」が原爆を予想したものであったかどうかを、生前の三村氏は明言せぬまま、昭和四十年に、六十七歳で死去した。しかし被爆した瞬間に「これこそ原爆だ」と悟ったことだろう。「原爆を体験した世界でただ一人の原子物理学者」を表敬するため、戦後に来日した外国の学者の多くが広島へ足を延ばし、三村氏を訪れた。原爆といえば、今回化学賞を受けた下村脩氏は、三村氏より三日遅く、長崎で被爆したという。

地動説提唱当時、コペルニクスやガリレオ・ガリレイらは、天地創造説に反するとして教会から迫害されぬよう身を慎んだと伝えられるが、安芸門徒の三村氏は竹原市の浄土真宗本願寺派照蓮寺の墓地で静かに眠っている。宗教風土の差を感じさせられる。