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生きる「意味」と死

2008年10月11日付 中外日報(社説)

個室ビデオ店なるものがあるという。カプセルホテルが現われたのはもうかなり前のことだが、最近はネットカフェだとか個室ビデオ店だとか、本来は宿泊施設ではないが、夜露にぬれずに夜を明かせる場所が大都会にはできたのである。

その個室ビデオ店の一室で放火し自殺を図った男がいる。しかし男は苦しさのあまり逃げ出し、他の部屋にいた十五人が一酸化炭素中毒で死んだ。男と接見した弁護士によると、男は無職で、妻とも別れ、生活保護金を酒やギャンブルに使ってしまう自分が嫌になり、死のうと思って発作的に個室内で放火したのだという。サラ金からの借金もかなりあったようだ。男は他人を道連れにするつもりは全くなかったと言っているようだが、狭い店で放火したらどうなるか想像もできなかったのだろうか。

この男の考えがどうだったのかはともかく、最近はネットで仲間を募り、密室で練炭を不完全燃焼させるなどして、集団自殺をする人たちが増えている。自殺を選ぶにしても一人では嫌な人間は多いのかもしれない。

話はいささか飛躍するが、われわれは一緒に生きている。しかし同じ意味で一緒に死ぬことは可能なのだろうか。どういうことかと言えば、こうである。一緒に生きるとは経験を共有することであり、それだけではなく、その経験が共通の過去に組み込まれ、そこからして親しさが培われるとともに、さらに共通の経験へと歩み出てゆくことである。

例えば秋になると東北の人は芋煮会を楽しむ。家族なり知人なりが渓流のほとりへ行き、河原の石を積んで小さなかまどを作り、火をおこして鍋で里芋と肉を煮る。宮城の人は豚肉を使ってみそ味、山形の人は牛肉を入れてしょうゆ味だそうだ。さらにコンニャクやゴボウなどを一緒に煮ることもできる。皆で同じ空、同じ秋景色を見、同じ川のせせらぎを聞き、円陣をつくって語り合いながら、同じ鍋の芋を食べる。一緒に生きているから、ささやかながらこうした会が持たれ、それがさらに一緒に生きる喜びをつくり深めてゆくのである。

一緒に死ぬ時はこうはゆくまい。それは主体の消滅、共通の経験の終わりであり、そこからさらに共通の経験へと歩み出ることはない。そもそもいくら一緒に死んでも、死ぬ時は誰でも一人きりになる。一緒に生きるのなら、いつまでも誰かが一緒にいてくれることがあり得る。しかし死んでも誰かが一緒についていてくれる、ということはない。

もしかすると一緒に死ぬ人は、一緒に生きる場合と同じように一緒に死ねると思っているのではなかろうか。しかし死は生ではないから、一緒に生きるのと同じ意味で一緒に死ぬことはあり得ないのである。

放火男は死の経験を共有するどころではなく、自分だけさっさと逃げ出し、逆に多くの人を死なせてしまった。彼はこの経験を死ぬまで抱き続けねばならない。狭い店での放火とは誠に許し難い行為だが、ひどく哀れでもある。

もう死んでしまいたいと思ったことのある人は少なくないだろう。しかしそう思った人が皆死ぬわけではない。過酷な運命にじっと耐えて生き抜いた人はいくらでもいる。

人間は生きる意味を求めるという。生きる意味がないから死にたいという。しかし普通にいう「意味」が存在しなくても人は生きられる。意味が人を生かすのではないからだ。放火男にこうしたことを教えた人はなかったのだろうか。

よく宗教は生きる意味を教えるというが、実は宗教は、人間は普通にいう意味がなくても生きられることを教えるのである。そうしたことを一度も耳にすることがないまま自殺する人がひどく哀れに思えると同時に、宗教は今、何をしているのかとも思う次第である。