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宗教的知識教育の一層の充実が課題

2008年10月2日付 中外日報(社説)

"愛国心"などとともに"宗教教育"が重要な争点となった教育基本法改正(平成十八年)で、「宗教教育」を定めた旧第九条は一五条に移り、第一項に「宗教に関する一般的な教養」という文言が付け加えられた。  教育基本法の改正が具体化してゆく段階で全日本仏教会などが宗教教育の重要性を訴え、宗教的情操の涵養(後には宗教的感性の涵養と修正)を提唱。民主党も政府案に対抗して、宗教的感性にも踏み込んだ改正案を提出した。その当時の論議を振り返ると「大山鳴動し……」の感が多少なくもないが、教育の改革に速やかな成果を期待するのがそもそも間違いなのだろう。

教育基本法改正の効果を議論するのはまだ早いとしても、ただ、宗教教育に関しては、その論議に刺激され、「宗教に関する一般的な教養」つまり宗教的知識教育の充実を目指す動きはやや具体化してきたように思われる。

日本宗教学会が構想を検討している「宗教文化士(仮称)」などはその一つだ。これは大学での宗教学教育を通じ、初中等教育で宗教を教えることのできる人材育成も課題として意識しているようだ。

ところで、公教育における宗教教育は教育基本法一五条二項(旧九条二項)で政教分離・信教の自由にかかわる制約が設けられている。先の改正論議では、この問題で「宗教的情操教育」か「宗教的知識教育」かという争点が浮上したことは記憶に新しい。

「宗教的情操」はこれを「宗教的感性」と言い換えても本質的には同じだと思うが、何らかの宗教的価値体系と無縁に「涵養」されることはない。それが宗教的情操と言い得るものならば、根底にはやはり何らかの特定の宗教的価値が存在し、知識だけでなく、儀礼などその価値に基づく実践によって涵養される。神道非宗教論はともあれ、戦前、教育の場でのさまざまの儀礼を通じ、愛国心や天皇崇拝と結びついた宗教的情操が涵養されてきたのは分かりやすい例である。

そのようなものである以上、信教の自由、政教分離の立場から言えば、公教育で宗教的情操や感性に立ち入るのは難しいのだが、にもかかわらず初中等教育における宗教的情操教育待望論は、教育の現状を憂う宗教人や政治家などに強く存在する。

先ごろ筑波大学で開催された日本宗教学会の学術大会で、公教育における「宗教的情操教育」の可能性を正面からテーマにしたパネルが開かれたが、そこにもこうした待望論の背景がうかがわれた。

特に氣多雅子京都大学教授は「特定の宗教と結びつかない宗教的情操は存在しない」という主張が宗教的情操教育の可能性を閉ざすと批判。「期待される人間像」がいう「生命の根源に対する畏敬の念」という概念を評価し、特定の宗教の立場に立つことなく、生きることの意味を考える態度を育成するための具体的な提案を目指す、と論じた。

ところで、これに対しフロアからは、そのような議論は「怖い」という挑発的な指摘がなされた。「特定宗教の立場に立たない」ということ自体が学校教育を通じ子供たちにおいて規範化され、特定の信仰に生きる人々へ偏見を生むのではないか、というのだ。

実際、各種の世論調査を見ると、特定の信仰は持たないが、一般論として宗教は必要と答えている日本人は多い。神仏習合の伝統も持つ日本人には、ひょっとしたらそうした規範を受け入れる素地さえあるのかもしれない。

さらに、「特定の宗教」の信仰は場合によっては権力批判のよりどころになり、歴史的にもそのような役割を果たしてきた。その点で「特定の宗教」によらない宗教的情操は、国にとってコントロールしやすい、非常に都合の良いものになる可能性が大きい。国家のつくる宗教的価値と考えれば確かに「怖ろしい」し、特定宗教の信仰の立場からは、疑わしい部分が残る。

上記のパネルでは土屋博北海学園大学教授が氣多教授と異なる立場で、宗派性のある知識も含む宗教的知識教育を通じて、自律的個人の問題としての宗教的情操への道を開く、とする議論を展開した。

「羮に懲りて膾を吹く」との例えが当たるかどうかはともかく、特定の宗派にかかわる知識内容はどうやら敬遠されるようで、宗教に関する「知識」の教育も充分に行なわれているとはいえない現状だ。迂遠なようでも、まず取り組むべきなのは、公教育における宗教的情操教育の議論より、宗教的知識教育の充実にさらに一歩踏み込むことであるように思われる。