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「蘭亭序」の運命

2008年9月27日付 中外日報(社説)

小雨模様であるにもかかわらず、JR両国駅から国技館の前を通って博物館に至るまでの道筋にはすでに人の列が続く。案の定、館内はむせ返るような混雑である。

第一室に展示されている唐の欧陽詢の「張翰帖」、顔真卿の「湖州帖」の前も大変な人だかりだが、中でもとりわけ人気を集めているのは、メガホンを持ったおじさんが整理に当たっている王羲之の「蘭亭序」である。

――永和九年、歳(ほし)は癸丑(みずのとうし)に在(やど)る暮春の初め、会稽山陰の蘭亭に会す。禊事(けいじ)を脩するなり。群賢畢(ことごと)く至り、少(わか)きも長(お)いたるも咸(み)な集う。

このように書き始められる「蘭亭序」。すなわち東晋の永和九年、癸丑の歳、西暦では三五三年の暮春三月の初め、王羲之の呼び掛けによって、会稽郡山陰県(浙江省紹興市)の名勝である蘭亭に当地の名士たちが会合したのである。

「禊事」とはみそぎの儀式。本来、三月の上巳(じょうし)すなわち三月の最初の巳(み)の日に人々は川岸に出かけてみそぎを行なう習わしであったのだが、いつしか次第に陽光のもとに集う遊楽に変わり、その日取りも三月三日に固定されるようになった。

永和九年三月のその日、蘭亭に会したのは四十二人。人々はそれぞれに座を占め、水面を流れ下ってくる觴(さかずき)を手にすくって自作の詩を朗詠する。

もし詩を賦し得ぬ場合には、罰として大杯につがれた酒を干さねばならない。いわゆる「曲水流觴(きょくすいりゅうしょう)」の宴である。

かくして王羲之以下二十七人の詩作品は、やがて『蘭亭集』の名のもとに一本にまとめられ、王羲之の前序と友人の孫綽の後序とが添えられたのだが、その前序こそが二十八行、三百二十四字から成る「蘭亭序」なのであり、そもそもそれは蘭亭の会において、興のおもむくまま書されたものなのであった。

ところで今回の展覧会に出展されている「蘭亭序」は、故宮博物院の所蔵にかかる「八柱第三本」と呼ばれるもの。「八柱本」とは、「蘭亭序」とそれにゆかりの墨跡八種をいうのであって、そもそもは清の乾隆帝の蔵品であったものなのだが、八種のうちの第一本から第三本までの三種は「蘭亭序」そのものの模本であり、その第三種が「八柱第三本」なのである。

かく「八柱第三本」は「蘭亭序」の模本である。模本のまた模本であるかもしれない。だが模本だからといって、馬鹿にしてはならない。そもそも四世紀の人である王羲之の真跡は、もはや一つとして現存しないのである。おまけに「蘭亭序」は数奇な運命のもとに、早い時代にこの地上から永遠に姿を消してしまったのであった。次のような事情による。

名君の誉れの高い唐の第二代皇帝の太宗は、ことのほか王羲之の書跡に魅了され、二千二百九十紙、十三帙、百二十八巻に及ぶ膨大なコレクションが帝室の所有となった。だがどうしても行方が分からないのが、王羲之の作品の中でも逸品中の逸品として評判の高い「蘭亭序」であった。

かくして探索に探索が重ねられ、その結果、山陰県の弁才禅師のもとに伝えられているとの情報を入手すると、宮廷からの密偵が遣わされ、ついにそれをだまし取ることに成功する。太宗は驚喜し、飽かず鑑賞を重ねたにちがいない。そして数種の模本の制作が命じられもしたのであった。

やがて貞観二十三年(六四九)、坊州宜君県(陝西省宜君県)の離宮において臨終を迎えた太宗は、皇太子を枕辺に呼んでこう語った。「朕は汝から一つのものを与えられたい。至孝の汝なれば、朕の意向に背くことはあるまい。朕が欲しいというのは蘭亭序じゃ。よみじの旅に連れてゆきたい」

かくしてその年の八月、「蘭亭序」の真跡は太宗のなきがらとともに都の西北の昭陵に葬られたのであった。

江戸東京博物館に展示される模本「蘭亭序」はそのような歴史を秘めているものなのである。