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信心は徳の余りと聞くけれど…

2008年9月4日付 中外日報(社説)

『ビッグイシュー』という街頭販売の雑誌がある。販売者はホームレスだ。ホームレスの人々に収入の機会を提供し、自立を支援する事業として一九九一年英国で始まり、二〇〇三年日本語版が創刊された。販売者は最初に十冊を無料で受け取り、その売り上げ三千円を元手に以後は百四十円で仕入れて三百円で販売、差額百六十円が彼らの収入になる。

先日、炎暑の大阪・梅田で顔なじみの女性販売者が立っていたので買ったら、ちょうど創刊百号の記念号だった。「売れている?」と声をかけたら「出版元の社長さんは大変みたい。売り上げの半分以上を私らがもらっているからね」と、遠慮がちに返事が返ってきた。筆者は以前、ほんのささやかな人助けのつもりでよくこの雑誌を買った。だが勤めをリタイアし、小遣いを減らされてから、販売者を見かけても素通りすることが多くなっていた。さりげなく実情を訴える販売者の返事で自分の"仏心"の気まぐれさ加減を反省させられた。

「信心は徳の余り」ということわざがあるそうだ。生活にゆとりがあってこそ信仰心も起こる。生活に追われていては、信仰心を起こす暇もない。しかし、それになぞらえて「人助けは懐具合次第」と言ってしまうと、身もふたもなくなってしまう。ボランティア団体に出入りしている筆者の直感にすぎないが、実はお金が有り余っていそうな人からの寄付にはなかなか出合わない。個人で寄付してくれる人の多くは、その額からしても普通の市民や学生である。困っている人を助けたいという菩薩心は、どうやら懐具合とはあまり関係がなさそうだ。だからこそ「貧者の一灯」を貴い善意として大事にしなければいけないのだろう。

ことわざの中の信心という言葉も「苦しい時の神頼み」といった薄っぺらなものではなく、筆者には理解が及ばない深い宗教的な意味があるのだろう。同様に人助けも「懐具合と相談」では駄目だな、と自戒しているうちに一つの疑問が浮かんできた。

昨今、国も自治体も財政難を盾に社会保障費の削減に血眼である。生活保護を例に取ると、自治体の窓口を訪れた困窮者にさまざまな難癖をつけて申請もさせず、追い返してしまう違法な「水際作戦」が全国的に行なわれているという。それが各地で悲惨な結果を招いていることは、以前にもこの欄で少し触れた。そんな非人間的な仕打ちがまかり通る社会で、仮に財政難が緩和されたとしても血の通った福祉は期待できるのだろうか。

「今の日本は、すべり台社会」という主張がある。セーフティーネットが穴だらけなので誰もが一度つまずくと途中で救われない。行き着く先が、ホームレスだ。最後のセーフティーネットの生活保護もあてにはできない。それどころか生活保護の給付水準を先進国では最低水準の労働者の最低賃金と比較して、高い方の生活保護を逆に切り下げろという声さえ聞こえてくる。弱者たたきの連鎖ではないだろうか。

「野宿者の夢見るふとんはぎとって何がアジアのAPEC」。確かそんな作品だったと思うが、何かの雑誌で紹介されていた。APECは、アジア太平洋経済協力会議。日本で国際的なイベントがあるたびに、公共の空間を占拠するホームレスの青いテントが強制撤去される。本来、すべての人々の幸せを図るべき政治が、弱者を排除していることへの憤りがにじみ出ている。労働意欲はあっても働く場がないホームレスを無差別に襲う事件が後を絶たないのも、そんな酷薄な社会の反映に違いない。

つまるところ「金」ではなく「心」の問題だろう。いつの間にか人々の心がすさんで、大事なものを見失ってしまった。宗教界が真正面から向き合わなければいけない重い課題である。