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玄奘も顔負けの法沖禅師の気骨

2008年8月21日付 中外日報(社説)

唐代の大旅行家であり、大翻訳家である玄奘三蔵の名を知らぬ人はいないであろう。玄奘は小説の『西遊記』の主人公でもある。

貞観元年(六二七)=一説に貞観三年=に都を出発し、貞観十九年(六四五)に帰国するまでのインド、西域に関する見聞の記録は『大唐西域記』にまとめられ、将来した経、律、論三蔵のテキストは合わせて六百五十七部、それらのうちの七十五部、千三百三十五巻は長安の弘福寺を訳場として翻訳された。

玄奘以前の翻訳は旧訳、玄奘の翻訳は新訳と呼んで区別するのが習わしである。貞観二十二年(六四八)、時の天子、唐の太宗が玄奘の新訳を顕彰すべく執筆した「大唐三蔵聖教(しょうぎょう)序」は、その五年後の高宗の永徽四年(六五三)に●遂良(ちょすいりょう)の書によって石に刻まれたものが西安の大雁塔に今日にまで伝わる。また高宗の咸亨(かんこう)三年(六七二)に王羲之の書蹟を集めて石に刻まれた「集字聖教序」も西安碑林に現存する。

玄奘の伝記は『続高僧伝』の訳経篇に存するのだが、ところで『続高僧伝』の感通篇の法沖(ほうちゅう)の伝記には、玄奘が法沖に一本取られた次のような話が見える。

――三蔵の玄奘は旧訳の経典を講義することを許さなかった。法沖は言った。「君は旧訳の経典をたよりとして出家したはずだ。もし旧訳の経典を弘布することを許さないのであれば、君は還俗するがよい。あらためて新訳の経典をたよりとして出家するのならば、その上で君のそのような考えを認めてやろう」。玄奘はぐうの音も出なかった。

かく法沖は玄奘も顔負けの気骨のある人物であった。そのまだ若きころ、後に太宗のブレーンの一人となる房玄齢と相識となり、「二十歳代にして五品の官に登らなければ、仕官はやめて逸民となろう」と互いに約束し、二十四歳にして見事に従五品の鷹揚郎将(ようようろうじょう)となったものの、母親が亡くなり、『涅槃経』に「居家は迫■(はくさく)、猶お牢獄の如し。一切の煩悩は之れに由って生ず(家庭生活は息が詰まりそう、まるで牢獄のようだ。あらゆる煩悩はそれから生まれるのだ)」(聖行品)、このようにあるのを読んで出家せんとの心を強く抱くに至った。

かくして安州(湖北省安陸)の暠(こう)法師のもとに赴いて三論や『般若経』や『楞伽経』を学び、その後、各地を巡って修行を重ねる。

そして冀州(河北省臨)にやって来た貞観(六二七-六四九)の初めのこと、私度僧は極刑に処するとの勅令が下ると、彼はかえって勅令を無視して剃髪し、出家せんとの素志をついに果たしたのである。私度僧とは王朝が公認せざる僧侶のことである。

そのころにはまたこんなこともあった。▲陽(えきよう)山(江蘇省※州)には難を避けた逃亡僧が多く集まり、食糧が底を突いた。法沖は州の長官を相手にこう掛け合った。「もし死を免れぬ場合には、私が一切をこの身に引き受ける。僧侶に食糧を施すならば、きっと福祐が得られるであろう」

法沖の気概に押された長官は法令を犯して救済することとし、そこで僧侶たちを二ヵ所に分け、それぞれに十斛(こく)ほどを蓄える米倉を設けた。

一ヵ所の僧侶は四十余人、もっぱら大乗を学び、また禅業の修行に励む者たちであって、何年たっても食糧は減らなかった。もう一ヵ所の僧侶は五、六十人ほどであったが、わずか二、三日で食糧は尽きてしまった。彼らは禅業を修行せず、また外学を習ったからである。

この話からも察せられるように、法沖は達磨に始まる禅の流れをくむ禅師なのであった。『続高僧伝』の撰者の道宣は、法沖伝の最後において、「命代の弘経護法強禦の士(何者をも恐れぬ世に名だたる弘経護法の人物)」と称賛し、またその行状を「一生、游道を務めと為し、曽(か)つて栖泊する無し(生涯、遊行に励み、一ヵ所にとどまることは絶えてなかった)」と総括した上、「今の麟徳(六六四-六六五)に至って、年は七十九なり」と、まだその健在なことを伝えている。


●=ころもへんに者、■=しんにょうに乍、▲=澤のへんがやまへん、※=丕におおざと