ニュース画像
「誠」の隊旗を掲げた五重塔院で営まれた法要
主な連載 過去の連載 エンディングへの備え
苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
購読のお申し込み
新規購読キャンペーン
紙面保存版

仏法の叡智の新たな輝きを

2008年8月19日付 中外日報(社説)

今年はことに暑い夏である。思い返せば、昭和二十年八月十五日も暑い日だった。あの日から、日本社会は大きな変動を次々と経験してきた。仏教界も波乱の中に巻き込まれ、さまざまな体験を経てきた。

『宗教年鑑』によれば、日本の仏教寺院は約七万七千ヵ寺、その他、布教所や教会を含めると八万五千を超える。郵政民営化で話題になった郵便局はおよそ二万五千というから、それと比べても確かに多い。このうち、檀家や拝観など、寺門護持の経済的基盤がしっかりしている寺院は一体どの程度あるのか。

若いころは筆者も伝統仏教への批判を受け売りして血気盛んだったが、自身住職五十年を迎え、それなりの経験を重ねると、特に地方の零細な寺院を地道な努力で支えている方々への畏敬を強くする。

仏教寺院は第二次大戦後の農地解放で寺院運営の基盤の変更を迫られた。宗派によってそれぞれ事情は異なるが、江戸時代後期以降、米価を経済の根幹とする社会体制にあって、諸寺院はそれぞれ所有する田畑を貸し地とすることで、独身の住職を中心とする寺院の運営が支えられるシステムであったように思う。

そうした環境は、大家族の集まりで構成される共同体としての村落の中で保たれてきたものであろう。村落の生活は、ある意味で濃密な人間関係の中で息苦しいものであったことは間違いない。自己主張は制限され、村のリーダーの指示に従って生活する息苦しさも、並大抵なものではなかったと思われる。不治の病に侵され、村落共同体の利益の障害になる者は、容赦なく追放されるという暗い一面もあった。半面、独力で生きる才能が無くても、利害関係の許す限り、地域の中で生きる場所が与えられるシステムも存在した。

格差の拡大が指摘される現代社会では、勝ち組と負け組にはっきり二分される傾向が強まっている。マネーゲームの成功例が賑々しく報道される一方で、ワーキングプアと呼ばれる恵まれない境遇の人がいる。制度的な差別はなくても、一度、社会の底辺に陥ったら、そこから這い上がることは容易ではない。

家族が解体すると、取り残された老人や、社会生活に不適応の若者などは、自己責任という現実の中で翻弄される。自己管理ができなければ、財産のすべてを失う。合法的に財産を放棄させられた人は、行き場も見失ってしまう。

社会的セーフティーネットは、行政レベルでかなり完備されてきたはずであった。にもかかわらず、現実にはそうした安全網から落ちこぼれてしまっている人々が大勢いる。自己責任が強調される風潮の中で、そうした境遇の人々がとめどもなく増加しつつあるように感じられるのは、メディアの集中的報道による単なる錯覚ではあるまい。

最大の問題は社会変化の中で、「家族」が分解への一途をたどっているという状況である。こうなると、家族という最小単位の共同体を基本的構成要素としてきた伝統的な社会そのものが根底から崩壊することはほとんど避けがたい、というべきだろう。そういう事態を招いた責任は現代の社会をリードしてきた世代にある。しかし、深刻な結果に直面しなければならないのは、次の世代なのだ。

歴史的に見て村落共同体に基盤を置いてきた仏教寺院への影響も今後さらに深刻になるはずだ。しかし、仏法そのものがそれで滅ぶわけではない。むしろ、社会のドラスチックな変動の中でこそ、仏教の叡智が輝くのではないか。その叡智を伝え、生かす若き人材が宗門から現われることを切に期待したい。