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道義を問う

2008年8月9日付 中外日報(社説)

さまざまな業界で産地偽装などの商品偽装、大型詐欺などは後を絶たない。小中学校の教育関係者の贈収賄から大学教授の論文剽窃まで教育界・学界の不祥事も連日のように報道されているような印象がある。道義の退廃はとどまるところがない。こうした現代社会の状況に心痛まない人はないであろう。

法律は外的拘束力である。それとともに、倫理道徳という人として踏み行なうべき道があり、自己自身が是非善悪を判断して行動することが求められる。是非善悪は個人的な内的拘束力を持つ。その価値基準は社会的に承認されているものが基盤になるが、これは同時に相対的でもある。

相対的であるという点では一応、倫理道徳と宗教とは截然として異なっている。しかしながら、宗教もまた倫理道徳を前提とし、両者が不可分的にかかわり合っていることは言うまでもない。宗教倫理の領域が存するゆえんである。

仏教の場合、初期仏教、大乗仏教、密教に一貫して宗教倫理を説いている。通仏教的な宗教倫理には広略の違いで五戒(略)・十善戒(広)がある。十善戒は十善業道ともいう。

江戸中期の慈雲尊者飲光(おんこう、一七一八-一八〇四)は、十善戒を"人となる道"と述べている。

一、不殺生-殺してはならない

二、不偸盗-盗んではならない

三、不邪淫-男女の道を乱してはならない

四、不妄語-嘘をいってはならない

五、不綺語-心にもない言葉を発してはならない

六、不悪口-悪くちをいってはならない

七、不両舌-二枚舌を使ってはならない

八、不貪欲-むやみにむさぼってはならない

九、不瞋恚-感情的におこってはならない

十、不邪見-善悪などの因果の理法を無視してはならない

――という十善戒について慈雲は、『十善法話』で次のように説く。

「人の人たる道といふは、この十善にあるぞ。人たる道を全くして賢聖の地位にも致るべく、高く仏果を期すべきことなり。この道をうしなへば、鳥獣にも異ならず、木頭にも異ならぬなり」

旧約聖書には神がシナイ山でヘブライ人の指導者モーセに与えたという十戒がある(出エジプト記二〇・二-一七)。

これは十善戒と次のように対置できるだろう。

モーセの十戒第六「殺してはならない」(日本聖書協会新共同訳、以下同じ)=十善戒の一

第七「姦淫してはならない」=十善戒の三

第八「盗んではならない」=十善戒の二

第九「隣人に関して偽証してはならない」=十善戒の四

第十「隣人の家を欲してはならない」=十善戒の 八

旧約の十戒は前提として神の存在がある。仏教では菩提心すなわち覚りの本源である清浄な心のはたらきが十善となる。

道義の退廃は、基本的には仏教で説く善悪業という意識の欠如であろう。そして罪悪観の喪失の結果にほかならない。

民主主義社会の基本的人権は、人は生まれながらにして自由であり、かつ平等であるという表現で示される。しかしながら自律的な拘束力がなければ、それは放縦と悪平等に堕すであろう。

倫理道徳における自律という内在的な規制力が見失われるならば、結果はどうなるだろうか。現実的には科学技術文明の加速度的な進展が人間の欲望の無限定な解放と連動する。現代資本主義社会は経済至上主義を促進させ、モラルのないマネーゲームが社会の安定すら危うくしている。

善因善果・悪因悪果、勧善懲悪はいまや古い道徳として退けられてしまったかのようだ。享楽主義が謳歌される一方で、人間性の本質である精神主義の後退が昨今の道義の崩壊となっている。

道義の回復について、精神文化にかかわる宗教界に対する社会からの期待の声は、残念ながらそれほど大きいともいえない。これは悲しむべき現実だが、その現実も見据えた上で、宗教者の社会的責務が極めて重かつ大であることを、あらためて深く認識したいと思う。