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苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
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ご導師、後ろを振り向かれては

2008年8月7日付 中外日報(社説)

「この駅に下車するのは約三年ぶりだな」と思いながら、改札口へ向かった。電話で聞いた典礼会場への道を、駅員に確かめようとすると「P会館ですか、Q会館ですか」と聞き返された。この前はP会館だけしかなかったのに、最近はライバルが出現したらしい。示された方向へ歩いて行くと、道路を挟んで同じような建物が二つ見えた。七月十二日付本欄では、埼玉県のAさんが体験した無宗教葬のことを伝えたが、約一ヵ月後、筆者は近畿地方のある市で、仏式葬の現場に接した。

都市での宗教葬は、典礼式場で営むのが慣習化している。この日のP会館の式次第も、しめやかさの中、ビジネスライクに手際よく進められた。開式に先立って、女性の司会者が参列者に説明する。「ご参列、ご苦労さまです。きょうは○○宗のご葬儀なので、ご焼香はこのようになさってください」と、身ぶりを交えての解説だ。司会者というより、インストラクターのような印象である。アルトがかった声が響く。「ご導師様のご入場です。ご一同様、合掌!」

○○宗僧侶の導師は、小柄な体つきだった。静かな足どりで入場すると、司会者の指示通りに読経を始めた。やがて焼香となり、次々に遺族の名前が告げられると、読経の声もやや低くなる。弔電披露の際は電文がよく聞こえるように、導師の声はピタリと止まる。その後、再び読経が始まって、予定時刻きっちりに式は終了した。司会者との呼吸はピッタリである。放送業界の用語でいうと、実に上手な"着地"だ。導師は立ち上がり、しずしずと式場を出てゆく。

導師は、○○宗の法儀にのっとり、順序たがわず執行したのだから、僧侶として、何も非難すべき点はない。しかし筆者には、何か物足りなさが感じられた。この葬儀によって、遺族や参列者と、○○宗との法縁が深まったといえるかどうかという点からだ。読誦された○○宗の経典は、単なるBGMに終わってしまったのではないか。

葬儀の途中で、導師が後ろを振り返るのは、許されないことかもしれない。しかしもし「これよりご焼香に移ります」と司会者が告げた時、導師自身の口から「私ども○○宗の焼香の作法はこうですよ」との説明があった方が、参列者により強い印象を残したのではないだろうか。

実はこの日の葬儀は、難病を持つ七十代の娘が、九十代の母を送る場だった。単なる老老介護ではなく、自ら介護されながら老母の介護をしてきたのだ。喪主である娘は、ヘルパーの押す車椅子で母に近寄り、親族に助けられながら不自由な手で、ひつぎの中へ花を入れ、最後の別れをした。もしも導師が退場の際、喪主のそばに足を止め「よくぞお尽くしになられましたね」と一言、声を掛けていれば、その場にどんなにか強い感動の輪が広がったであろうに。それでこそ、檀那寺の住職だ。

十年余り前、筆者は四国の農村での葬儀に連なったことがある。導師を勤めた△△宗の僧侶は、経典を漢文でなく、自ら和語訳した文章で読誦した。参列者に理解されない経を読んだのでは、死者への供養にならないとの信念からだった。後で「本山からしかられませんか」と尋ねたら「本山など問題ではない。檀家のためになるかどうかが問題です。私は私のやり方こそが、宗祖の心にかなうと信じます」と答えた。

一部で葬儀の宗教離れが進んでいると聞く。特に仏教が顕著である、とも。導師は、時に後ろの席を振り向いてもよいのではあるまいか。「これから読むお経には、お釈迦さまのこういう願いが込められています」と、導師の説明があれば、長い法話に勝る効果があるのではないか。もともとは、埼玉県のAさんが提唱したことだが、筆者も全く同意見である。