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被爆後六十余年煩悩消え去って

2008年8月5日付 中外日報(社説)

・炎(ひ)に追はれ逃げ切 れずここに膝折りし友の声する夏 常盤橋(ときわばし)

・この川に逃げて死にたる友らなり水きらめくは友らの眼(まなこ)

・炎に追はれ友振り切りて逃げし橋生きさらばひて今渡りゆく

広島市在住の歌人、研井(とぎい)悦子さんの被爆詠である。旧制の広島県立女子専門学校(現・広島県立大学)一年生だった研井さんは、広島駅北西に架かる常盤橋の周辺で、川に逃れてそのまま亡くなった多数の市民を見た。

「生きさらばひて」の言葉には、生き恥をさらすという思いがこもる。たまたま物陰にいて、やけどをしなかった研井さん。安全なところへ逃げるのに精いっぱいで、重傷者を助けられなかった。友に死に後れたという後ろめたさに、今も悩む。若い歌仲間にはその心境がなかなか理解してもらえない。

・火傷なきを罪のごとくに思いたる彼の日鮮やかにまた原爆忌

・数万の御霊(みたま)沈めて藍深くよどむ川なり広島の川

詠みぶりは違うが、京都市在住の歌人、上田緑さんもまた、生き永らえた負い目を感じる日々だ。

あの日の広島では、旧制中学校・女学校の一年生に犠牲者が多かった。市の中心部に火除けの空き地を作るため、軍の命令で家屋疎開作業に動員され、原爆の真下で被爆したからだ。たまたま欠席して難をまぬがれた生徒は、周囲から「生き残り」と呼ばれた。非難めいた感情のこもる言葉。県立校在学者で、いたたまれなくなって私学へ転校した者もいた。研井さんの言葉を借りるなら「生きさらばひ」た気持だろう。

生き残った生徒が原爆を落としたわけでないことは分かっているのに、死没者の家族たちには、少数の生存者のいることが許し難いと感じられたようだ。昭和五十二年の夏、各校はそれぞれ、原爆三十三回忌法要を営んだ。その時、死没生徒の親たちの多くは、生き残り組と言葉を交わそうともしなかった。まさに"煩悩"である。

その遺族と生き残り組のわだかまりが解けたのは、平成六年の五十回忌だ。親たちは八十代半ばを超え、生き残った生徒も還暦を過ぎていた。広島県立広島第一高等女学校(現・県立広島皆実高校)一年生だった広島県呉市在住の歌人、梶山雅子さんはこの年の原爆忌に、仲良しだった故・石堂郁江さんの両親から、初めて石堂さんの墓参りをすることを許された。「郁江の分まで長生きをしてください」と言って、石堂さんが被爆の前日まで記していた古い日記帳を、後世に伝えるよう託された。

・亡き娘の齢(よわい)を重ね幸くあれと友の父君ほほゑみ給ふ

・帰らざる娘の日記抱きつつ母君いく度もわが齢を聞く

原爆とは関係ないが、四年前の日本経済新聞に、作家の山本一力さんが、要旨次のようなエッセーを寄稿していた。小学校四年生の時「オールド ブラック ジョー」の歌を習った。先に亡くなった仲間から「早く天国へおいで」と誘われるというフォスターの曲。歌い終わった後で女性の先生は「今の皆さんには無理でしょうが、この歌詞の意味が分かる日がきっと来ます」と述べたそうだ。「先立たれた悲しみ、残された寂しさ」が理解できるまでに、戦争を知らぬ山本さんは約四十年かかった。

わたくしごとを許していただくなら、筆者が被爆したのは旧制中学四年の時だった。被害の軽い場所にいたので、同級生の約半数は今も生存している。先日、そのうち四人に電話をしたら、二人は身体の不調を訴え、一人は夫人から認知症と伝えられた。最後の一人だけが「今、テニスコートから帰ったところだ」と元気。被爆六十三年、語り継ぐべき人が減ってきた。