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人間性を直視する自立的な精神主義

2008年8月2日付 中外日報(社説)

宗教・道徳・学芸などの精神的所産を狭義の文化というのに対して、文明は人間の技術的物質的所産である(『広辞苑』)。従って文化は広く人間の精神活動にかかわるものといったらよいであろう。

昨今、わが国の公私あらゆる面での財政難に加えて原油高、原材料高、物価高が拍車を掛けている。「慣れて当たり前になった生活様式は、なかなか変えられない。が、一人ひとりに差し迫った問題として対応が必要になっている。かつて日本人の美徳とされていた質素倹約の意義をもう一度、思い起こしたい」といった論調が見受けられる。

宗教的立場から見ると、文明の本質は物質的生活面の充足が第一義である。それは精神面で"負"に作用するという陥穽(かんせい)がひそむことにも気付かなければならない。文明の発達は人間の無限定な欲望の解放と連動しているからである。

今日、節約・倹約、あるいは質素・清貧・知足などは、死語化してしまったのではないかと思われるほどである。これらは現代社会でも果たして「美徳」になっている、ということができるのだろうか。

敗戦後間もない昭和二十一年(一九四六)、GHQのマッカーサー指令で発行した一円札のデザインは、二宮尊徳(一七八七-一八五六)の肖像画であった。

尊徳は神・儒・仏の三教の思想に基づいて陰徳・積善・節倹を積極的に実践した。そして驚くべきことに六百五町村の経済復興をものの見事に成し遂げた篤農家でもある。敗戦でほとんど絶望的に荒廃した日本の再建のために尊徳が登場したのは、極めて意義あることだったに違いない。

江戸後期における米沢藩主の上杉鷹山(一七五一-一八二二)は、節倹に徹して破綻寸前の藩財政を立て直した。それまでの放漫財政を緊縮政策に革命的に転換したのが功を奏したのである。かつて米国のケネディ大統領が日本の政治家として尊敬する人物として挙げたことも知られている。

これらの事例は、経済的ハンディがばね(発条)となり節倹という実践思想が原動力となって働いているのである。

わが国が高度成長期に入った一九五五年ごろの話である。ある著名な放送作家の自宅に編集者が原稿の催促に行った。極貧の生活ぶりに驚いた、という。ところが作品がヒットして時代の脚光を浴び生活が豊かになり始めたころから作品の内容が落ちた、と聞いたことがある。

漂泊の俳人の種田山頭火(一八八二-一九四〇)、ほぼ同時代に無一物の俳人、尾崎放哉(一八八五-一九二六)がいる。

大阪道頓堀

みんなかへる家はあるゆふべのゆきき  山頭火

入れものが無い両手で受ける  放哉

常人の域を超脱した精神の孤高は、窮乏のどん底の中で光を放っている。

弘法大師空海(七七四-八三五)は、「道人、素(もと)より清貧を事とす」と説き示す。そして、高野山における起居を「家督にならず、君に仕える臣下でもなく、ひとり貧に安んじている。朝がたは谷川のいっぱいの水を飲んで命をつなぎ、夕暮には山のかすみをひとのみして気力を養っている」と述懐している。

今や人権尊重、福祉増進、格差是正が時代の合言葉になっている。裏腹に偽装や贈収賄などの不祥事が後を絶たない現代社会は、正常といえるだろうか。偏向した肥満経済とマスメディアによる情報伝達の過剰氾濫。欲望に追い使われている自分たちの姿に気付くいとまもない。

偏狭な精神主義は、いただけない。けれど人間性から目をそらさない自立的精神主義は、われわれの物質的欲望を適宜に抑制するためには、どうしても不可欠である。宗教の存在理由の一つも、この点に認められるに違いない。