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共に鶴を折った二人の倶会一処

2008年7月15日付 中外日報(社説)

大倉記代さんという六十七歳の女性の死が、六月下旬の各紙に報じられた。広島市の平和公園に立つ「原爆の子の像」のモデルとされる佐々木禎子(さだこ)さんと二ヵ月余、ベッドを並べた人である。

戦前から戦後にかけて、肺結核は日本人のかかりやすい病気だった。広島市立国泰寺中学校二年生の記代さんは、その初期の肺浸潤と診断され、広島赤十字病院に入院した。昭和二十九年十二月である。

広島赤十字病院は現在、広島赤十字・原爆病院となっているが、当時から原爆症の治療の中心的存在だった。記代さんは部屋替えで昭和三十年六月、原爆の影響とみられる白血病患者の禎子さんと同室になった。禎子さんはその年二月、市立幟町小学校在学中に発病して入院。籍の上では市立幟町中学校一年生に進学していた。

禎子さんは、記代さんを「お姉ちゃん」と呼び、記代さんに借りた森外著の『雁』を熱心に読んだ。

そのころ、名古屋の女子校から原爆症患者へ、お見舞いの千羽鶴が送られてきた。禎子さんはそれを見て鶴を折り始めた。当時の内服薬は四角な形の紙に包まれていたため、禎子さんは不要になった包み紙をもらい集め、ベッドに寝たまま器用に折った。記代さんも手伝ったが、消灯時間後も折り続けた時は看護師にしかられた。

《折った鶴が千羽になると病気が治ると信じていたのに、禎子さんはあともう少しという段階で亡くなった》という説があるが、生前の記代さんによると、特に千羽という目標は決めていなかったし、千羽以上折っていた。「でも、そういう筋立てにした方が禎子ちゃんを語りやすいのかもしれませんね」

順調な経過をたどった記代さんは、その年八月に退院し、田舎の親戚の一室で静養することになった。別れる直前に、禎子さんは「お姉ちゃんは退院できるからいいな」とつぶやいたそうだ。禎子さんの手足は驚くほど細く見えた。自分の運命を知っていたのだろうか。

記代さんは、昭和三十年十月二十五日の禎子さんの十二歳の死を、新聞で知った。現在では考えられないが、当時の新聞は、原爆症患者が亡くなるたびに実名で「今年何人目の死者」と報道した。やがて被爆者に配慮し、詳しい報道を控えるようになったが。記代さんは禎子さんの葬儀には列席できず、翌年の原爆忌の直前に弔問した。

広島市の平和公園に立つ「原爆の子の像」が実現したのは、幟町小学校の級友たちが「サダコのためにお墓を」と願ったのがきっかけだった。広島市内の小・中学・高校の児童・生徒会を主体に「広島平和をきずく児童・生徒の会」(きずく会)が結成され、広島市教委の幹部や小・中学・高校の校長会が顧問となって全国的な募金活動が展開された。昭和三十一年一月である。

組織をつくって一つの目的のために行動する気風が定着した時代であった。「きずく会」は短期間に五百八十余万円を集め、彫刻家の菊池一雄氏に像の制作を依頼、昭和三十三年五月五日の「こどもの日」に除幕式が行なわれた。今年はそれから満五十年である。

禎子さんの発病当時は、自営業者への国民健康保険制度は実施されておらず、原爆症の治療費を国が全額負担する原爆医療法も制定されていなかった。禎子さんの治療費が重荷となった佐々木家は、目抜きの電車通りで営業していた理髪店を周辺部に移し、ついには廃業してしまった。原爆症の医療対策はその後かなり改善されたものの、患者認定をめぐる訴訟はなお完全決着していない。

記代さんの六十七歳という享年は、決して長寿とはいえまい。やはり被爆の影響なのか。禎子さんと記代さんの「倶会一処」。今年も間もなく原爆忌である。