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苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
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無宗教の葬儀や偲ぶ会の問題点

2008年7月12日付 中外日報(社説)

埼玉県の自宅から都内に通勤しているA氏は、部下の妹が療養のかいなく死去したと聞いた。享年二十五歳という若さで。

職場の同僚とともに、神奈川県のセレモニーホールで営まれた告別式に参列した。故人の希望は「宗教色のないお別れ会にしてほしい」だったという。A氏は持参した数珠をポケットにしまったまま、係員の誘導で祭壇の前に進み、遺影に花をささげた。焼香はせずに引き下がる。なんだか、時間に追われた流れ作業のような印象を受けた。

もちろん、僧侶も神職も牧師もいない。式場には、A氏の知らない曲がBGMとして流されていた。あるいは、故人が好んで聴いた曲であろうか。

A氏は、故人に会ったことはないが、二十五歳の死と聞けば心が痛む。「ずいぶん短い人生でしたね。やりたいことがあったでしょうに」と語りかけたい思いがしたが、流れ作業的な献花では、それもままならない。逆縁で送る遺族の心情を思いやるすべもなく、席に戻った。

A氏の実家の宗旨は、臨済宗である。A氏自身、特に宗教心が強いとは思わないが、こうした席へ出てみると、仏式葬の良さが思い出された。献香し、拝礼する時、心の中に何かを描きながら冥福を念じたものであることを。

さて、この日の参列者はさすがに若い女性が多かった。職場の先輩でも三十歳前後、同輩は二十代半ば、後輩はまだ大学生である。告別式で、これだけ多くの若い女性と同席するのは初めてだった。

黒い喪服は着ているものの、髪はそれぞれカラフルに染めている。爪は「キラキラ派手派手」に飾り立てたまま。靴のかかとを鳴らして歩く人もいた。現代の風俗を見せつけられる思いである。「喪服の女性は美しい」といわれるが、その美しさは喪服だけのものでなく、全身の態度によるものだと知った。

さらに"お清め"の会場での「飲み食い」の迫力のすさまじさ。若い食欲という「欲」が空間を圧していた。「香典分は食べなくっちゃ」という意識なのか。早々に式場を逃げ出したA氏は、都内を経由して埼玉へ向かう京浜東北線の車中で、これが現代のトレンドなのだろうかと考え込んでしまった。

一方、大阪近郊に住むB氏は、浮かぬ表情をしていた。数年前に定年退職した親しい先輩の死を、二ヵ月たって知らされたという。かねて心臓が不調と聞いていたが、ついに回復しなかったらしい。故人の遺志で四十九日が過ぎるまで、会社にも旧友にも発表しなかったそうだ。

在職中、大きな業績を挙げた人だけに、何もしないわけにはいかないという声が上がった。リーダー役のC氏が「ホテルで偲ぶ会をやろう」と提唱した。C氏もすでに定年を迎え、大学教授に転身している。

ではなぜ、B氏が浮かぬ顔をしていたのか。それはC氏が平素から、派閥観念に凝り固まっている人物だからだ。偲ぶ会の会場が決まったら、自分の取り巻き連中だけに案内状を出すだろう。B氏には絶対に誘いがないことは、目に見えている。さりとてC氏とは別の偲ぶ会を企画するのも、角が立つ。これが普通の宗教葬だったら派閥に関係なく自由に参列できるのに、とB氏は思った。

最近、無宗教の葬儀について聞くことが少なくないが、ここに挙げた二つの例を見ると、必ずしも故人の"追善"になっていない。

"葬式仏教"の意義を見直すべきだという声は、以前からある。宗教者は主導権回復を目指して動くべきではないだろうか。

その成否は、平素の宗教葬の場で導師や司式者となった場合、限られた時間にどのような声で遺族や参列者に語りかけるかの積み重ねにかかっているはずだ。葬祭業者の言いなりに動くことはない。