ニュース画像
多くの人が見守る中、彰義隊墓所で盛大に営まれた150回忌法要
主な連載 過去の連載 エンディングへの備え
苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
購読のお申し込み
新規購読キャンペーン
紙面保存版

塩尻公明先生に親鸞さまを見た

2008年7月8日付 中外日報(社説)

昭和三十四年のお盆のこと。当時三十一歳だった島根県益田市の農家の主婦、中村文子さんは、激しい目まいを感じた。胸がむかつき、耳鳴りがする。

医師は、小さな釣り鐘に似たものを頭に乗せ「音がした方の手を上げなさい」と指示したが、何も聞こえない。「突発性難聴です。治療法はありません」。こうして文子さんの難聴者生活が始まった。

実家は十六代続いた旧家で、浄土真宗本願寺派寺院の門徒総代を務めたこともある家柄だが、婚家は苦境にあった。文子さんの聴力は、時にやや回復したかと思うと、また落ち込む。そんな中で昭和三十八年、文子さんは家計を助けるため京都へ出た。

「お文さん、なんで返事せんのや!」。板前が血相変えて怒鳴ったらしい。住み込み先の料亭で、後ろから呼びかけた板前の声が聞こえなかった。仲間が取りなしてくれたが、板前の不興を買った店には、もういられない。

そんな失敗の後で、新聞の求人広告に応募し、任天堂に就職した。当時の主力商品だった花札やかるたに裏張りする作業。難聴者には適職だった。夜はスナックでアルバイトして、仕送りの金額を増やした。

ある日、京都市東山区のアパートに、電気代集金の女性が来た。言葉が充分に聞き取れなかった。女性は言った。「耳が不自由なのですね。区役所の福祉の窓口へ行きなさい。障害者手帳や補聴器などが支給されますよ」

文子さんの存在を知り、同じ区内の山本隆夫さんという難聴者が訪ねてきた。山本さんは記念写真の撮影業者だったが、難聴者同士が励まし合う組織、京都市難聴者協会(市難協)の東山区支部に入会するよう勧めた。文子さんは「仲間がいる」ことを知った。やがて文子さんは職場に近い南区に転居し、市難協の同区支部長に選ばれた。

さまざまな会合を開くたびに、手話や要約筆記のボランティアが協力してくれた。文子さんを取り巻く世界が広がった。中でも京都市の要約筆記グループ「かたつむり」の元会長、西原泰子さん(左京区)の励ましが大きかった。

京都の難聴者仲間では、元小学校校長で、全日本難聴者・中途失聴者団体連合会(全難聴)の事務局長だった藤原猛さんの積極さに学んだ。文子さんは藤原さんの推薦で、全難聴の理事を務めた。

「小学校を出ただけの私に、なぜさまざまな役職が回ってくるのか。強いて挙げるとすれば、活字好きということでしょうか」

アルバイトでスナック勤めをしていたころ、哲学の話をしたがる客がいた。その客から「読書好きだそうだね。これを読みなさい」と哲学書を手渡された。その中に神戸大学名誉教授・塩尻公明氏の著書『生甲斐の追求』があった。難しいと思っていた哲学が、分かりやすく説かれていた。

昭和四十四年、思い切って塩尻氏にファンレターを出すと「いつでもいらっしゃい」と返事があった。文子さんは五月四日、神戸市の塩尻邸を訪れた。"一文不知"の文子さんの質問に一つ一つ筆談で答えてくれた塩尻氏は、辞去する時に高台まで見送り、いつまでも手を振った。「私はその日のお姿に、親鸞さまを見たような気がしました」と文子さんは言う。

それが塩尻氏との一期一会になった。六月十二日、塩尻氏は奈良市の帝塚山大学で講演中に倒れ、不帰の人になったからだ。このように文子さんは、常に求め続ける向上心があり、その姿勢が周囲の人々から信頼されるのだろう。

いま京都市右京区に住む文子さんはこのほど、半生の記録を『島根 益田川の夢・昭和の時代を生きて』の一冊にまとめ、京都・文理閣から出版した。多くの人々がこの一冊から、昭和後半の女性史の一端を読み取ることを期待したい。