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世界恒久平和への道程

2008年7月3日付 中外日報(社説)

今年は昭和二十年八月十五日にアジア太平洋戦争が終結してから六十三年を迎える。六月二十三日に沖縄戦の最後の激戦地であった糸満市摩文仁で全戦没者追悼式が行なわれた。その慰霊碑-平和の礎(いしじ)-には二十三万人の戦没者の名前が刻されている。

沖縄では四人に一人が戦没している、という。一億玉砕の本土決戦を目前にした前哨戦が沖縄戦でもあったのだから、本土防衛のために戦った戦死者はまさしくその尊い犠牲になった事実を、われわれ日本人は永久に銘記しなければならないであろう。

また毎年八月六日の広島原爆投下と八月九日の長崎原爆投下の日には広島・長崎の両市長が世界に向かって核兵器廃絶宣言を発信し続けている。さまざまな平和運動も繰り返されている。だが、その世界的な反響はいかがなものだろうか。

二十世紀は、世界大戦が二回もあった。にもかかわらず、世界の大国はいまなお軍備力の均衡によって世界平和を保持しようとしている。その結果、二十一世紀になって再び新しい軍備拡張時代に突入しているといわなければならない。

軍拡の抑止力としての核拡散防止条約(NPT)は昭和四十五年(一九七〇)二月にわが国も調印し、昭和五十一年(一九七六)六月に批准した。しかし、この条約は今日の世界情勢から見ると実質的には軍拡の積極的な抑止力にはなり得ていない、と思われる。

クラスター爆弾という残酷極まりない兵器が開発されている。投下された爆弾から空中に数百の小型爆弾が炸裂して広範囲に想像を超える被害を与えるという。昨年二月にオスロで開かれた「クラスター爆弾禁止に関する国際会議」におけるオスロ宣言など、使用禁止に向けた動きはあるが、米国、イスラエル、ロシア、中国などは会議に参加しておらず、その効力は絶対的ではあり得ない状況にある。わが国の自衛隊も専守防衛を建前にこれを保有しているのは公然たる事実である。

現在、米国・ロシア・中国に次いで、わが国の軍備力が世界第四位であるという事実は、一般にはあまり認知されていない。しかも年ごとに軍備増強は進められている。憲法改定論議もまたこうした現況を前提としている。

他方また、わが国は非核三原則、すなわち核兵器を持たず・作らず・持ち込ませずの原則を遵守している。世界で唯一の被爆国でもある。"ヒバク"は今日、世界語にすらなっている。恒久平和を世界に向かって発信し続けているのも、わが国である。

人類の長い歴史を顧みる時、力の論理に終始するだけでは最終的な平和の道はないということを、人類は充分に学び取ってきたはずである。それを学び得なかったとしたら、人間の英知は残念ながらいまだに未発達の段階にとどまっているといわなければならないだろう。

あらゆる宗教の本質は非暴力の立場に立って力の論理を否定し続けてきたはずである。それは人類が持つ究極の英知なのである。にもかかわらず二十一世紀の今日的状況は、民族紛争と宗教対立に起因する局地戦争が絶えることがない。

二千数百年前、北インドにおいて諸国家の強権によって種族社会が滅亡するのを目撃した釈尊は、次のように説き示している。

すべての者は、暴力におびえる。すべての者は死を恐れる。自分に引きくらべて殺してはならぬ。殺させてはならぬ(『法句経』一二九)。

すべての者は、暴力におびえる。生はすべての者が愛好する。自分に引きくらべて殺してはならぬ。殺させてはならぬ(『法句経』一三〇)。

『スッタニパータ』(経集)ではこれに加えて「殺すのを傍観していてもならぬ」(ダンミカの経・三九四)という釈尊のことばを添えている。

もしも殺される者がわが身にほかならないとしたならば、果たしてどうして相手の者を殺すことができようかという反問だ。

これこそが慈悲そのものである。釈尊は不殺生の立場から戦争は最大の罪悪である、と言明する。まさしく世界恒久平和の原点だ。この千古不磨の提言にわれわれは、心底、真摯に耳傾けなければならぬ時がきているのではなかろうか。