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貴賤隔絶の時代の「四海は皆な兄弟」

2008年6月21日付 中外日報(社説)

一人の漁夫が迷いこんだ太古の世さながらの異郷を描く「桃花源記」、あるいはまた「菊を採る東籬(とうり)の下(もと)、悠然として南山を見る」などの詩句によってなじみの深い陶淵明。

彭沢(ほうたく)県(江西省湖口県の東)の県知事を務めていた時、上級官庁の郡から視察にやって来た役人を正装して出迎えるよう勧める部下の言葉をさえぎり、「我は五斗米の為に腰を折って郷里の小人に向かうべからず(わしはわずかの俸給のために田舎者の小僧の前にぺこぺことお辞儀をすることなどできはせぬ)」、このように言って直ちに職を辞し、郷里の柴桑(さいそう。江西省九江市の西南)に戻って自由の身となった歓びをうたう「帰去来の辞」をご存じの読者も多いに違いない。

四、五世紀の中国に生きたこの詩人は、潔癖な性格であるとともに心のやさしい人であった。

彭沢の知事に任じて間もなくのことであろう、郷里に残した息子の苦労を思いやり、手伝いのために一人の人夫を差し向けることとするのだが、その際、次のような文面の書簡を息子に与えている。

――汝は旦夕(たんせき)の費、自ら給するを難しと為す(お前は日々の生活費を自分一人で稼ぐのにさぞ難儀をしていることであろう)。今、此の力(人夫)を遣わし汝の薪水の労(薪拾いや水汲みの苦労)を助けしむ。此れも亦た人の子なり。善く之を遇すべし。

「帰去来の辞」に「僮僕は歓び迎う」と見える「僮僕」も、この人夫のことであるのかもしれない。僮僕とは下男とか作男とかと訳すべき言葉である。

陶淵明に五人の息子があったことは「子を責む」と題した五言詩に見え、また儼(げん)、俟(し)、●(ふん)、佚(いつ)、■(とう)と名づけられたそれら五人の息子たちを訓戒する「戒子書」を残しているのだが、その「戒子書」において次のように述べられていることにも注目される。

――汝等は同生ならずと雖も、当(まさ)に四海は皆な兄弟の義を思うべし。

「同生ならず」とは母親を同じくしないこと。陶淵明は最初の妻を亡くして再婚したため、五人の息子たちは同生ではなかった。だがたとえ異母兄弟であっても、「天下の者はすべて兄弟」という言葉の意味をよく考えてみなさいと諭しているのだ。

「四海は皆な兄弟」は、『論語』顔淵篇が伝える孔子の弟子の子夏(しか)の言葉を典拠とする。すなわち、「人には皆な兄弟有るも、我は独り亡(な)し」、そのように嘆く司馬牛(しばぎゅう)を、友人の子夏が、実の兄弟だけが兄弟なのではない、「四海の内、皆な兄弟なり」と慰めたのであった。

陶淵明が『論語』に由来する「四海は皆な兄弟」という言葉を用いているのは、それぞれ異母兄弟である息子たちを訓戒する「戒子書」においてのことなのだが、一人の人夫を遣わすに当たって、「此れも亦た人の子なり」と述べ、大切に処遇するようにと諭しているのも、やはり「四海は皆な兄弟」という意識に基づいてのことではなかったか。

陶淵明が生きたのは、「士庶の際は天隔す(士人と庶民との間は天ほどの隔たりがある)」という言葉が存在したことに端的にうかがわれるように、貴賤の身分秩序が厳しく言われる時代であった。そのような時代にあって、「四海は皆な兄弟」なることを自覚的に意識していた陶淵明。いかにもさわやかでやさしいその人柄がしのばれるのだ。

●=人偏に分  ■=人偏に冬