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苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
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最も厳しい声に波長を合わせて

2008年6月19日付 中外日報(社説)

「よいお坊さんはいませんか」と聞かれることがある。それに対する答えは、やさしいようで、むずかしい。あたかも「よいお医者さんはいませんか」と聞かれた場合のように。

何をもって「よいお医者さん」の基準としたらよいのか。病巣を見つけて、ただちに切除する外科医を求める人もいるだろうし、切らずにじっくり経過を見極める内科医に期待する人もいるだろう。患者の訴えに対する聞き上手の医師もいれば、経済的な負担に配慮する医師もいる。

同じように「よいお坊さん」もさまざまだ。厳しい修行を積んだ人、教学の研究に業績を挙げた人、多くの弟子を導いた人、宗派の運営に手腕を発揮した人などなど……。しかし、一般の人々が求めるのは、悩み事を親身になって聞いてくれる人や、心に深く刻まれるような法話をしてくれる人であろう。

五月八日付の本欄では、そのようなお坊さんに出会うことのできた喜びをつづる手記二編を紹介した。しかし現実には、そのような例ばかりではない。

六月初めの産経新聞のある地方版には、記者の署名入りで、要旨次のような記事が出ていた。「知人が、あなたには悪霊がついていると言って、ある宗教から入信の勧誘を受けて困っている。こういう時の相談に応じてくれそうな"駆け込み寺"がありそうで、なかなか見つからない。私の祖父が先日亡くなった時に、住職はお経だけ読み、法話はしてくれなかった。本山では檀信徒向けに耳ざわりのよいスローガンを掲げているのに、地方寺院の現場はそんなものだ」

さらに「近所のプロテスタント教会では、週末に牧師や信徒の姿を見るが、すれ違うと先方から挨拶してくれる。これに比べると、寺院は敷居が高い」。この記事には「求む、駆け込み寺」の見出しがつけられていた。

同じ日、毎日新聞の読者投稿欄には「葬式だけの寺・存在価値あるのか」と題して、信越地方のA氏がこう記していた。「町を歩けばお寺に行き当たる。広い駐車場、新築の大伽藍、居宅も豪邸というところもある。都会のお寺は葬式仏教に特化して、縁なき市民の悩み、苦しみなど、どこ吹く風の世界だ。かくて悩める市民は都会の孤独にさいなまれる=要旨」

たしかに、一部ながらこのような寺院や住職が存在するのは事実であろう。それがマスコミで記事化される時、仏教界の全体像として拡大・投影されることになる。

一方、その翌日の朝日新聞には「お寺存続 四苦八苦」と題したルポ記事が掲載された。北陸地方の山村の"限界集落"ともいうべき過疎の村の寺院だ。法要のたびに五十代の住職は、マイクロバスを運転して近くの村を回り、高齢の信徒を迎えに行く。路線バスはないし、老人たちは山道を歩いて寺に集まる体力はない。「葬式のたびに檀家が一つ減る」という。老人が亡くなると、子や孫は郷里へ寄りつかなくなる。

「葬式のたびに檀家が一つ減る」という声は、高野山真言宗が五月末に開いた中国ブロックの一日内局会でも、岡山県美作地方の住職から出された(本紙六月五日付1面)。

ひところ、住職は葬儀や法事の時、檀家側の車で送迎されていた。やがて住職自身が運転して檀家回りをするようになった。そして今、一部地方では住職の側が檀家の老人を送迎するという、一つのパターンが定着しかけている。

こうした情勢の中では、住職が親身になって檀家や一般住民に対応しなければ寺は維持できない。先に紹介した記事や投稿の筆者は仏教が正法であることを前提に記している。期待するところが大きいのだ。仏教界としては、最も厳しい批判の声に波長を合わせ「よいお坊さん」とされる道を探るべきではないか。