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出家とは何か

2008年6月12日付 中外日報(社説)

このごろ、にわかにお寺の存亡を危ぶむ新聞や雑誌の記事が目に付くようになってきた。過疎地では、一つ葬式が出るたびに、一軒の檀家が減っていくなどと、はなはだ末期症状的な話まで耳にする。筆者の知人には、自分の寺をそういう将来性のない田舎から、今のうちに都会へ移しておこうという達人さえいるくらいだ。これは甚だやる気のある和尚と言わねばならない。

このようにしてまで、寺を立派に維持し続けようと意気込む住職は、それなりに現代的感覚を身につけ、世俗世界と歩調を合わせ、旧来の檀家寺という固定的な枠を超えて、現代社会の一般民衆を教化の対象とするのである。そのためには良い意味でも悪い意味でも、自分を世俗化させることはやむを得まい。かつてH・コックスの『世俗都市』で主張された、宗教の「テンプルからストリートへ」の方向である。そしてそういう方向は、現代寺院の取るべき自覚的方向であろうと思う。

反対にまた、依然として過疎地にあって清貧に甘んじつつも現代の世俗化に逆行し、僧侶としての自分のあり方に徹しようとする住職もある。しかしその代償は厳しく、寺は疲弊の一途をたどるばかりであろう。

当然そういう寺には後継者を期待することはできないが、少なくとも自分だけは、命ある限り出家の道を全うしていることに自負を持っている。これもまた住職としての尊い姿勢であり、筆者はそういう人に出会うたびに、尊いものを見る思いがする。

これはやや大ざっぱな分析であるかもしれないが、これこそ現代日本に見られる寺院住職のあり方をめぐる格差現象といえるかもしれない。そういう両極端にいる寺院住職たちは、いずれにしろ寺を取り巻く社会の急速な世俗化という外圧に、押しつぶされそうになってあえぎ、「出家者であるとはどういうことか」という根本的な課題に、真っ向から向き合っているといえるであろう。

しかし現実には、とにかく寺の中で檀家のために葬式法事をしておれば、仏飯を頂き続けることはできるという状況に安住してしまっている例は多い。大都会の寺院のような緊迫した状況にはなく、ふと気がつけば、ただ忙しく日々を過ごしている。とすれば、真の「出家」とは何か、あらためて考えてみる必要があるのではないか。

今あえて「出家」に言及したのは、何も寺を出て還俗するというような皮肉なことを示唆しているのではない。出家ということは、本来的には、世間を出て「一人になること」である。世俗的世界から自己一人へと、関心を集中させることである。

従って、そういう出家者が集まってつくるサンガや叢林という特殊集団の目的は、出家者一人一人の修行を保護することであった。こうして出家の意義は、本来、徹底的に個人に帰せられるのである。今日いかに寺院の住職が教団組織の一員であろうとし、教団の護持に努めようとしても、その一人一人が出家としての自覚を持たなければ、教団はそれこそ前近代的な烏合の集団でしかなく、社会に対して何のインパクトも持ち得ないことは言うをまたないだろう。

現代における出家は、固陋な体制とは別に、僧侶が真に自由で自覚的に、出家者であろうとする精神運動でなければならない。そういう出家こそが、人生の苦悩を訴えてやってくる個々人に対応することができるし、そのような出家者の集団であってこそ初めて教団も大きな存在意義を持つだろう。

そして、門の敷居を低くして人々を自由に寺に迎え入れること、つまり寺院を透明(コックスの言うシースルー)にすること、それがかえって寺に住む住職の、「今日的な出家」になるのではないか。