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食べ残す客には責任がないのか

2008年6月7日付 中外日報(社説)

高級料亭といっても、経営規模は小さい。その店でワンマン経営者が強い"指導力"を発揮すると、従業員はそれに従わざるを得なくなる。「船場吉兆」も、そのような店の一つだったようだ。

この店は昨年の晩秋、世間から厳しく批判された。店頭販売する食料品の製造日付をごまかし、産地偽装を重ねていたことが明るみに出たからだ。

こんな場合、ややもすると罪を従業員になすりつけようとする悪知恵が働く。「パートの従業員が勝手にやったこと。経営者は知らなかった」。そのようなウソはすぐばれるのに。

記者会見に現われた、家つき娘の女将が述べた言葉は「創業者の亡き父に、何と言ってわびたらよいか」だった。自宅の仏間で言うべきことを、記者会見の場で言い、しかもぬれぎぬを着せた従業員へのわび言はなかった。

これでいいのかな、と思っていたら半年後の五月、前の客が食べ残した料理を次の客に"使い回し"していたことが暴露された。女将は「手つかずの料理は食べ残しとは違う」と発言した。料亭の経営者としての良心がマヒしていたことが分かる。一部報道によるとこの習慣は十四年も続いていたらしい。

ということで新聞もテレビも、厳しい形容詞を並べてこの料亭への批判を繰り返した。その中で日本経済新聞の「波音」というコラムが、控えめな筆致で、次のように書いていた。

「目の玉が飛び出るような勘定の料理を平気で食べ残す客を相手にするうちに商売の初心を忘れたに違いない」と。つまり、料理を残す側にも問題があったということを、やんわりと指摘したものだ。

大阪の料亭は、ビジネスマンが取引先を接待する場として利用される。主人側は、自分の前の料理に箸をつけていたのでは仕事にならない。相手の話に相づちを打ちながら酒を勧め、歓心を買おうとする。

招かれた側も、料理の味や食材には関心を示さず、主人側に太っ腹なところを見せようと応対する。そこがナニワの商人道というものかもしれない。

東京の政界では、有力な閣僚や議員同士が、幾つもの料亭を渡り歩き、妥協点の探り合いなどで密談を重ねる。短時間の料亭滞在にも一人前の料理が出されるが、これまた大部分は食べ残しだ。

朝日新聞が紹介する料理研究家・服部幸應さんの意見は「国内では年間二千万トン以上が残飯として処分されている。食料の約四分の一を食べないまま捨てている計算だ。食べ残しを出さない工夫を、店側も、消費者もしなければならない」である。特に高級料亭で食べ残された食材は、肉でも魚でも野菜でも最高級品のはずだ。

産経新聞のコラムに寄せた作家・曽野綾子さんの意見は、食べ残しは客に持って帰らせたらよい、ということだ。料亭で容器をもらって持ち帰り、火を入れ直したりして、料亭に行けなかった妻や子どもに食べさせる。むだにしないという「船場吉兆」側の思いは家庭でなら温かく生かされる(要旨)という。

高級料亭ならずとも、日本の温泉旅館では、食べ切れないほどの料理を出すところが多い。「食べ切れないなら、残したらよいでしょう」とこともなく言う従業員もいるが、戦中戦後の食糧難を体験した世代にとっては、やりきれない思いがするだろう。

筆者のわたくしごとであるが、昨年夏、神戸市の有馬温泉に一泊した時、その旅館で出されたのはほどよい分量の料理だった。おかげで、食べ残すという"うしろめたさ"を感じなくてすんだ。

高級料理の食べ残し問題については、ぜひとも宗教界の人々の意見を聞いてみたい気がする。「モッタイナイ」運動を外国人に任せておくことはあるまい。